金井重さんを偲んで

 喪中はがきが届く時節になったが、きのう、ユニークな世界旅行家だった金井重(しげ)さんが今月5日に94歳で亡くなったことを知った。

 いつも笑顔の楽しい人で、私も親しくお付き合いした。たくさんの思い出がある。ご冥福をお祈りします。

 金井重さんは、世界旅バックパッカー婆さんとして知られ、年金を使ってのつましい旅で世界中を精力的に回ってきた。冒険家の集まり「地平線会議」でも何度か報告している。報告会のインデックスには―
1992/11/27「重さんの諸国漫遊記」◇金井重〈世界旅行家〉
1994/5/27 「シゲさんの地球88か国お遍路講談」◇金井重〈旅行家〉とある。

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99年5月の「金井重とその仲間達展」の案内状より

 テレビのワイドショーにはリュックを背負って登場して、旅のおもしろさを語った。すさまじい好奇心と人懐こさで、どこに行っても市井の人々に入り込んで旅を満喫していた。

 一人旅は全部自分で決めるから楽しいのよ。お金の使い方を決める大蔵大臣でもあるし、移動手段を決める運輸大臣、体調を管理する厚生大臣も自分でやるんだから・・豪快に笑いながら、語っていたシゲさんを思い出す。

 シゲさんを偲んで、久しぶりに『地球たいしたもんだね~シゲさんの八十八カ国放浪記』(1996年、成星出版)の頁を繰った。

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本のそでには「お金はチョッピリ、時間はタップリ、輝け、ビンボー放浪世界旅行!」とある。88カ国すべての旅の記録があるが、ブルネイだけ写真がないとのことで私が提供した。

 著者紹介にはこうある。

《1927年福島県に生まれる。女学校卒業と同時に、戦時下のため女子挺身隊に入る。敗戦となり故郷に戻り、民間企業へ勤務。その後、上京して共立女子大学文芸学部へ入学。卒業後、日本労働組合総評議会で働く。計30年間の労働生活を節目に、1980年に退職。翌年9月、アメリカを振り出しに、93年12月までに88か国を旅する。さらに96年6月までに訪れた国は92か国を数えている。そのユニークな旅の経験を語る講演会が人気。著書に『シゲさんの地球ほいほい見聞録』(山と渓谷社)、『おばんひとり旅』(あむかす)がある。》

 軍国少女から転じて「泣く子も黙る」と言われた総評(左派労組のナショナルセンター)の専従活動家になってバリバリやっていた重さんが、どういうわけで早期退職して旅に出るようになったのか。

《戦後の民主主義の青春期、60年安保から70年安保に至る高度経済成長期、オイルショック以降の経済安定期を、働きづめに働いてきて、ふっと思ったんですよね、このままでいいのかしらって。52歳のときでした。夏目漱石の頃なら、人生50年。でも、もはや人生は80年の時代。残りは約30年もある!さて、金井さんよ、どうする?ここらで身も心も、一度オーバーホールしておいたほうがいいんじゃない?それから第二の人生を踏み出すのよ、ね?

 それで退職して、アメリカに渡ったっていうわけです。ほら、島崎藤村も「志を立てんとする者は旅に出よ」と言っていますから。アメリカを選んだのは、英語が話せるようになるんじゃないかと期待して。英語、ずっと苦手だったんですよ。なにしろ、女学校では適性言語ということで習えなかったし、28歳で入った大学では、基礎力がないから落ちこぼれ。でも、国際化が進むこれからの時代、英語も話せないんじゃ情けない。よーし、頑張るわよぉ!というわけで、西海岸で移民のための英会話学校に通ったんです。

 が、しかし。50の手習いですから、なかなか身につきません。ちっとも英語がペラペラにならないうちに、翌年の夏のバカンスが来て、リュックを担いでメキシコ旅行に出ました。それが、グアテマラへ、南米へ、果てはヨーロッパへと続く、長い旅になってしまったのです。見知らぬ国を次から次へと旅していくことの、おもしろいこと、おもしろいこと。

 「金井重」改め「フーテンのシゲ」は、こうして、第二の人生の始まりにおけるつまづきから生まれたのでした。》

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「旅をしていると、シゲはとっても軽快で、いい気分になれます。旅がそんなシゲを作ってくれるのです。ありがとう、青い地球。そして世界の人々。もっと旅をして、この世を楽しみたい。」(あとがき)『地球たいしたもんだね』より


 シゲさんのハジケぶりは、一心不乱に左翼活動に没頭してきた反動だろうか。旅の体験は「放課後の開放感」と表現している。

 どうして旅を続けるのか?との問いに、

《ズバリ、おもしろいからです。そりゃ、キツイことだってありますよ。若くないから。でもね、おばさんになってからの旅は、若い人には(たぶん)わからない味ってもんがあるんです。
 いろいろな国に行って、文化や生活習慣の違いからくる、思いがけないカルチャーショックを受けたりするでしょう?そんなとき、コチコチ頭にズシーンと、すごいパンチを食らっても、「これぞオーバーホールの価値あり」って、わりと素直に喜べちゃう。「ああ、ダメなおばさんが、これで少し鍛え直してもらえたわ」って。なんだか、放課後の開放感といった感じで、どんな経験も楽しめるんですね。このごろ、芭蕉西行が旅に出た気持ちが、僭越ながら、わかるような気もしてきました。》

 シゲさんの旅は俳句を詠み、人生を考え、少しづつ「深化」していく。

《2回目の旅の途中、インドで知り合ったアンマという女性が、「あなたはそうやって旅をすることで、人生を考える林住期を送っているのよ」と言ってくれたのが、今でも心に残っています。「林住期」とは、ヒンズー教で、「学習期」「家住期」に続く、瞑想にふける時期を指します。これを経て、精神的な余生を過ごし、死を迎える「遊行期」となるのです。うーん、林住期かぁ。なるほどなあ・・・。》

 私と知り合ったころ、シゲさんは還暦を少し過ぎたころで、よく、私はいま「林住期」を生きているのよ、と言っていた。

 私がバンコク駐在中は、旅の途中に立ち寄っては泊まり、うちに荷物を置いて、旅の「拠点」にしていた。

 バンコクのうちに泊まったあるとき、シゲさんが「あのね、簡単に覚る方法があるらしいわよ」という。

 当時、私はダライラマとインドのチベット亡命政府を取材したあとで、チベット密教の瞑想に凝っていた。毎晩私が瞑想するのをシゲさんが知って、こういう話になった。

 「トランスパーソナルっていうのが、アメリカにあるらしいわよ」とシゲさんが言うのをメモして岡野守也『トランスパーソナル入門』を買い、読んだことから、岡野さんに師事するようになった。シゲさんは、人生の転機のきっかけも作ってくれたのだった。

 私が最後にシゲさんに会ったのは6~7年前の地平線会議の報告会だった。短い立ち話でどんな「遊行期」を送っているか、聞きそびれたが、きっと納得のいく人生だったのだろうと思っている。

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2017年9月、長野亮之介さんの個展にて地平線会議の仲間たちと。これ以降はシゲさんはほとんど外出しなかったようだ(連れ合いの写真より)私は残念ながら居合わせなかった