「懐かしい未来」再読3

 前川喜平さん、吹っ切れたように、次々と安倍内閣のいかがわしさを暴露している。
 今週号の「週刊朝日」では、杉田官房副長がらみの二つの事件の証言が出ている。一つは、天下り問題で、前川さんが監視委に提出したメールに外務省と内閣府のものがあったことに杉田氏は怒り、「外務省と内閣府に関わるメールは出すな」と言ったこと。再就職等規制違反問題は、文科省内だけに限定して、他省庁に及ぶ証拠は出すなと命令したのだ。もう一つは、文化功労者を選抜する文化審議会の選考分科会の委員候補から、政府に批判的な意見の人をはずした事件。とても子どもっぽい独裁体質の匂いがする。
 安倍内閣のあまりの理不尽に追及の手があがっている昨今、安倍首相とその取り巻きの面々が、どんどん悪相になっている。かみさんその他複数から同じ感想を聞いた。

 これは東京新聞の望月衣塑子記者から、文科省は圧力をかけられた側であって、「総理のご意向」を伝えた側を調べないといけない、第三者内閣府を調べさせよと迫られ、情けない生気のない表情を浮かべる菅官房長官

 調査をやると言っておいて、「総理のご意向」文書の存在を告発した文科省の役人に対し、国家公務員法違反(守秘義務違反)での処分を示唆した義家弘介文科副大臣も、急激に顔が醜くなってきた。http://www.asahi.com/articles/photo/AS20170613003985.html

 40歳を過ぎたら自分の顔に責任をもて、という言葉はリンカーンが言ったそうだが、あれって本当だったのか・・・
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 さて、「懐かしい未来」についての小文の3回目。

4.ゴミを出さない暮らし
 人びとは限られた資源を注意深く利用する。あるものを完全に使い切るのは「物惜しみ」ではなく、豊かさの基盤である。
 「簡単に捨てられるものは、何もない。もう食べることができなくなったものでも、家畜にやることができる。燃料として使えないものでも、土を肥やす肥料とすることができる」。
 「ラダックの人びとは、手織りの服を、もうこれ以上つぎが当てられないくらいまでつぎ当てをする」。「着古して、もうこれ以上縫っても着ることができないとなると、泥と一緒に練り固め、灌漑水路の漏水を防ぐのに用いられる。」「雑草」とみえる多くの野生植物も採取され、燃料や家畜の飼料、家の屋根材、垣根、染料、薬、食品、香料、籠編みの材料などに使われる。家畜の尿や糞、人糞も無駄にせずに肥料にする。(p38-39)
 ここには文字どおりのゴミというものは存在しない。

5.生の喜び
 「ラダックの人には、押さえきれない生きる喜びがある」とヘレナは感嘆し、自身の属する近代西洋社会と対比させながら、「自我」意識さらにはコスモロジーの違いを見出している。
 「私たちの生活は、あまりにも不安感と恐れに彩られているため、何もかも忘れて自分や周りのものとの一体感を経験することが難しい。一方、ラダックの人たちは広い寛容な自我を持っているようである。彼らは私たちがするように、恐れや自己防衛の囲いに逃げ込むということをしない」。(P113-114)
 「ラダックの人ほど落ち着いていて感情的に健康な人たちを、今まで私は見たことがなかった」。「いちばん大きな要因は、自分自身がより大きな何かの一部であり、自分は他の人や周りの環境と分かちがたく結びついているという感覚である」。「ラダックの人たちは、この地球上に彼らの居場所をしっかりと持っている。その場所との毎日の親密な接触、季節の移ろいであるとか、必要性、制約など、身近な環境についての知識を通して、そこにしっかりとつながっている。星や太陽、月の動きは、日々の活動を左右するなじみ深い生活のリズムになっており、彼らは自分が存在しているこの居場所を巡る生き生きとした関係に気づいている」。「同じくらい大切なことは、ラダックの人の開かれた自我の感覚は、人と人との親密な結びつきと関係していることである。」(P114-115)
 「物事はこうでなければならないという考え方に固執するより、むしろ物事をあるがままに積極的に受け入れる能力が身についている。たとえば、何カ月も手塩にかけて育ててきた大麦や小麦が、収穫の途中で雪や雨のために駄目になってしまうことがある。だが、まったく平静を保ち、よく冗談を言って苦境を笑い飛ばす」。「死でさえも、私たちよりたやすく受け入れてしまう」。「生を唯一の機会と捉える感覚はない。死は終りであるのと同様に、はじまりでもある。」(P108-109)
 ラダックの人たちの満足感と心の平穏は周りの状況に左右されず、内面から得られる。「人間関係と周囲の環境とのかかわりが、ラダックの人の心の平穏と満足感を育むのに役立ってきた」。「満足は、自分が大いなる命の流れの一部であることを感じ、理解し、気を楽にしてその流れと一緒に動いていくことから来る。」(P116-117)
 人びとは大きな幸福感のなかに生き、恐れをいだくことなく死んでいく。この人びとの精神生活にはチベット仏教が深く息づいている。
(つづく)