親子の縁を断ってでも闘う!―あるミャンマー人民主活動家の決意

 お知らせです。

高世仁のニュース・パンフォーカス】No.21「親子の縁を断ってでも闘う!―あるミャンマー人民主活動家の決意」を公開しました。

www.tsunagi-media.jp

 先日、日本に着いたばかりのソーティナインさんというミャンマー人男性に会った。ひどい弾圧下で自由にものが言えないミャンマー国民に代わり、民主化のために闘うために日本にやってきたという。彼に現地の状況と闘う決意を聞いた。

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ソーティナインさん

 【ニュース・パンフォーカス】への補足として、ソーティナインさん(ソーさん)をもう少し詳しく紹介したい。

 ソーさん一家はネピドー(のちの2006年に首都になる)に住んでいた。父は大学教授、母は高校の教師だった。
 「ラングーン工科大学」(現ヤンゴン工科大)に進んで3年目の1988年3月、ソーさんの人生を変える事件が起きる。

 ソーさんの母校の学生のデモ隊と治安部隊が衝突し、治安部隊の発砲によって一人の学生が死亡した。これが全国を席巻した反独裁の民主化運動の発火点となった。
 8月8日、ビルマ全土で大規模なデモが行われ、反独裁を意思表示した。この「8888民主化運動」には、学生だけでなく、僧侶、公務員、軍人にいたるあらゆる階層が参加したが、これに対して軍部は無差別に発砲し、激しい弾圧を行った。

 このとき、母親の病気の看護で里帰りしていたアウンサンスーチーさんが、民衆に押し出されるように登場し、民主化運動のリーダーになった。一方、軍部は9月18日、クーデターを起こして権力を掌握、ここから民衆対クーデター政権の闘いが長く続くことになる。

 ソーさんは当時19歳だった。3月の事件で大学のキャンパスが閉鎖になると、自分の住む地域のストライキ委員会で活動、その副議長として地域をまとめ、運動の先頭に立った。軍部の弾圧は容赦なく、友人や親戚の中からも拘束され、拷問される人が続出した。結局、数千人とも言われる犠牲者を出して民主化運動は鎮圧された。

 ソーさんも指名手配され、治安部隊に拘束されるが、幸運にも、部隊の責任者がたまたま、ソーさんの母親の高校の教え子だった。母親が彼に息子を見逃してくれるよう頼み、ソーさんは「今後、政治活動をしない」との一札を入れて釈放された。

 ソーさんは家に戻ったが、心休まる日はなかったという。連日、ラジオやテレビから流れて来るのは軍を正当化し、民主化をおとしめる放送ばかり。それが耳に入るだけで怒りがこみあげ、腹痛が起きた。犠牲になった友を思えば涙が流れ、生きる気力も失せてしまいそうになった。心身の変調をきたしたソーさんを見かねて、母親が勧めたのが瞑想だった。
 89年8月、ソーさんは得度し、お寺で瞑想三昧の生活に入った。体調は整ったものの、祖国の未来に希望を見出せないため、外国に行こうと考えた。特に良い印象をもっていた日本に行くのが希望だった。しかし、ソーさんが海外に行くことに父親が反対したため、お寺の中に開設された語学学校で日本語と英語を学ぶことにした。語学を学ぶことは楽しかったが、将来が全く見えないままうつうつとした気持ちを抱えたつらい日々が続いたという。

 93年4月、一つの出会いがあった。バンコクからヤンゴンに取材に来ていた『朝日新聞』アジア総局長の大和(おおわ)修さんが、ミャンマーの若者が何を考えているかインタビューしたいと、人づてに取材を申し込んできた。取材が終わり、大和さんが別れ際「バンコクに来たら遊びにいらっしゃい」と言った言葉で、ソーさんの日本行きの夢がよみがえり、矢も楯もたまらなくなった。

 両親から外国に行く許しを得たソーさんは、バンコクに出て朝日新聞アジア総局を訪ねた。ソーさんを迎えた大和さんは「うちの仕事を手伝わないか」と持ち掛けた。アジア総局では毎日ミャンマーからの放送をモニターして翻訳し、情勢を分析する仕事があった。日本語も英語もできるソーさんはうってつけの人材だったのだ。

 ソーさんは2年ほどバンコク朝日新聞の仕事を手伝ったあと、95年に日本に渡り、難民申請をした。難民と認められたソーさんは、翻訳でミャンマーと日本をつなぐ活動をしながら、日本の中古車を東南アジアに輸出するなどのビジネスを展開し暮らしを支えた。ミャンマー人女性と結婚し子どもも授かった。

 2010年、ミャンマー民主化の兆しが現れる。アウンサンスーチーさんの自宅軟禁が解かれ、翌11年、形式的には文民政権になり、政治犯が釈放された。弾圧されていたアウンサンスーチーさんの政党NLD(国民民主連盟)も活動を再開。12年、アウンサンスーチーさんは連邦議会補欠選挙で当選し、欧州、米国などを訪問、ホワイトハウスオバマ大統領と会談するなど政治家としての活発な活動をはじめる。

 ミャンマーは国際社会から受け入れられ、経済制裁も解除された。ここからは言論の自由を含むさまざまな権利が認められ、15年には念願の民主選挙でNLDが8割の議席を勝ち取って圧勝する。
 
 ソーさんは民主化がすすむミャンマーに期待して、2012年に帰国した。祖国の発展に貢献するとともに、17年におよぶ日本滞在の経験を生かして、ミャンマーと日本の「かけはし」になろうと決めたのだった。

 日本をふくむ世界各国からのミャンマー進出がブームになるなか、ソーさんは日本企業だけでなく、JICA(国際協力機構)やJetro日本貿易振興機構)、さらには国連、世界銀行などさまざまな国際機関で翻訳やコーディネートで活躍してきた。

 人々は民主化の恩恵を心から喜んでいた。自由にモノが言え、好きな商売をやることもできる。海外からの投資が流れ込み、どんどん暮らしが豊かになっていった。独裁的な軍事政権が長かったので、人々にとっては、獲得した自由がなおさら貴重に思われた。

 そこに起きたのが今年2月の軍事クーデターだ。市民たちは全国で激しい抗議行動を起こした。年寄りから小さな子どもまで、街頭に出てデモを繰り広げた。とりわけ自由の空気を知ってしまった若者たちはクーデターに怒り心頭だった。

 デモはあくまで平和的なものだったが、軍は実弾を発射して弾圧し、たくさんの死傷者が出た。ソーさんの知り合いや友人にも傷ついたり軍に拘束された人がいる。

 ソーさんは、軍が市民を暴力支配する現状を許すことはできないと、日本で実名を出し、顔をさらして活動するつもりだという。国を離れるとき、ソーさんは90歳の父親に「離縁してほしい」と言った。ソーさんが民主化のために日本で闘えば、父親が軍ににらまれ、迷惑をかける可能性があるからだ。

 最愛の父との「勘当」まで覚悟して闘おうというソーさんの勇気に、私は胸があつくなった。微力だが、支援していきたい。