きのう森喜朗氏が五輪組織委会長を辞任の意向との速報。
吹き出物やがて傷口開くもの (奈良県 伊谷剛)朝日川柳11日
だからもっと早くに辞めればよかったのに。
しかし、日本サッカー協会(JFA)相談役の川淵三郎氏(84)が森氏の後任というのがまた問題だ。
まず、森氏が川淵氏に会って「頼むよ」と後任を託し、川淵氏が「涙を流され、おれも泣いちゃった」と引き受けたという。
《この日の面会の同席者によると、川淵氏は森氏に会うと『お気の毒に』と涙を流し、森さんのこれまでの思いも背負ってやっていきたい。バトンを引き継がないといけない」などと決意を述べたという。》(朝日新聞12日)
そして川淵氏は森氏に「相談役」で残ることを願って引き受けてもらったという。
もう浪波節。川淵氏は、何が問題なのか全く分かっていない。
不祥事で去る人が後任を「禅譲」で決め、本人が組織に力を持った形で残るというのだ。まるで森氏の主導権で事が進んでいく。多くの人も納得できないだろう。
一週間かばった輩(やから)の立場なし (要京都 土屋進一)12日朝日川柳
森氏の「謝罪」で幕引きを図った輩はどうする?
菅首相のリーダーシップは今回もゼロ。これだけ大きな国際問題になっているのに、またまた「後手」にまわった。
今回の森氏辞任は、もちろん国内外の批判がベースにあったにしても、決定打になったのは米テレビ局のNBCからの引導だったというのが、いかにもお金第一で動くオリンピックらしい。
スポーツジャーナリストの二宮清純氏が、昨夜の「ニュース23」に登場して、国際五輪委員会(IOC)の収入の7割がNBCからのテレビの放映権料であり、そのNBCが辞任すべしと主張したのがIOCを動かし、辞任に至ったと解説した。
NBCのサイトを見たら「森氏は辞任しなければならない」との見出しの記事で、
「(IOCにとって)肝要な試練は、正しいことをやることであり、森氏に辞任させることだ。野卑な行為を見過ごすことは、もっと野卑な行為を招くだけである」
“the key test is whether the IOC will do the right thing and force Mori to resign. Ignoring boorish behavior only begets more boorish behavior.”
と非常に強く主張している。これではIOCはひとたまりもない。
森氏の辞任劇は、オリンピックの本質も一部垣間見せている。
とここまで書いてきて、一転、川淵氏が会長職を辞退するとのニュースが入ってきた。「密室」で決めることなどへの批判が噴出して、「禅譲」がつぶれた格好。これも当然だ。
3月から聖火リレーが始まるというのに、このすったもんだでは、「五輪中止!」の声がますます大きくなりそうだ。
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今回の騒動で、男女格差(ジェンダーギャップ)の国別ランキングで、日本が153カ国中121位と下位に低迷し、主要7カ国(G7)では断トツの最下位であることが話題になった。女性の権利、地位、活躍度では圧倒的な後進国なのだが、この状態を、「昔を引きずっている」からだと思っている人が多いと思う。
私の愛読書、渡辺京二『逝きし世の面影』は、江戸末期から明治初期にかけて日本を訪れた欧米人の目に写った日本を紹介している。これをひもとくと、日本の女性は実に自由で活発、初めて見る外国人にも物おじせず、加えて愛くるしいと激賞されている。
「アジア的生活の研究者は、日本に来ると、他の国に比べて日本の女性の地位に大いに満足する。ここでは女性が、東洋の他の国で観察される地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇せられているのがわかる。日本の女性はより大きな自由を許されていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている」(福井藩校で教えたグリフィス)
庶民の女性のほうが地位が高いという、階層による違いも指摘されている。
「農民の婦人や、職人や小商人の妻たちは、この国の貴婦人たちより多くの自由と比較的高い地位をもっている。下層階級では妻は夫と労働を共にするのみならず。夫の相談にもあずかる。妻が夫より利口な場合には、一家の財布を握り、一家を牛耳るのは彼女である」(明治6年に来日し明治44年まで滞在したチェンバレン)
「日本の婦人は作法や慣習の点で、ずいぶん中国女性と違う。後者にとっては、外国人の顔を眼にするや否や逃げ去るのがエティケットなのだが、日本の女は逆に、われわれに対していささかの恐怖も気おくれも示さない。これらの茶屋では、彼女らは笑顔で近づいて来てわれわれをとり囲み、衣服しらべにとりかかる。握手することさえ覚えてしまうのだ」(プラントハンターとして1860年(万延元年)に来日したフォーチュンが名所の梅屋敷に立ち寄ったさい)
江戸の庶民には、男言葉と女言葉の差がほとんどなかったという。
高齢の女性と湯屋の番頭との会話;
女性「オイ番頭さん、おいらの上がり湯がないよ」
番頭「そこに汲んどきましたぜ」
女性「めくらじゃあるめえし、汲んである湯が見えねえでどうする」
飲酒喫煙もほぼ自由だった。
離婚歴は当時の女性にとってなんら再婚の障害にはならなかった。その家がいやならいつでもおん出る。それが当時の女性の権利だった。
慎み深く従順な日本女性などという定型化したイメージは吹っ飛ぶと渡辺京二はいう。
「徳川期の女ののびやかで溌溂としたありかたは、明治に入ってかなりの程度後退したかに見える。しかしまだその中期ごろまでは、前近代的性格の女の自由は前代の遺薫をかおらせていたのである。」(渡辺京二)
となると、いま残っているのは明治期から作られた近代版男社会の遺制なのではないか。
最後に、外国人をとりこにしたかつての日本の女たちについて。
「開国したこの国を訪れた異邦人の“発見”のひとつは、日本の女たちそれも未婚の娘たちの独特な魅力だった。ムスメという日本語はたちまち、英語となりフランス語となった。オイレンブルク使節団の一因として1860年初めてこの国の土を踏み、62年領事として再来日、72年から75年まで駐日ドイツ大使をつとめたブラントのいうように『ムスメは日本の風景になくてはならぬもの』であり、『日本の風景の点景となり、生命と光彩を添え』るものだった」
この当時の日本女性は実に魅力的だったようである。これを復活させよう。