閔妃暗殺―日韓近代史の暗部に分け入る

 ここ2~3日、真夏のような陽気だが、虫の音や落ち葉にしみじみ秋を感じる。

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美しく染まった柿の葉。自然の業は神秘的だ

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きょうの夕焼(内藤橋から)

 日本と大陸との関係史を古代からぼちぼち勉強しなおしている。日本とは何かと問うとき、日本という国家自体、大陸との関係の中で形成されたわけで、特に朝鮮と中国は重要だ。私の知識は戦後の現代史にかたよっているので、古代から近代まで何を読んでもおもしろい。

 角田房子『閔妃(みんぴ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母』(新潮社1988)を読む。

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閔妃

 《時は19世紀末、権謀術数渦巻く李氏朝鮮王朝宮廷に、類いまれなる才智を以て君臨した美貌の王妃・閔妃がいた。この閔妃を、日本の公使が主謀者となり、日本の軍隊、警察らを王宮に乱入させて公然と殺害する事件が起こった。本書は、国際関係史上、例を見ない暴挙であり、日韓関係に今なお暗い影を落とすこの「根源的事件」の真相を掘り起こした問題作である。第一回新潮学芸賞受賞。》(amazonデータより)

 著者の角田房子氏が事件を調べようと思いたったのは、1984年、元駐韓大使の後宮寅郎(うしろくとらお)氏からたまたま聞いた思い出話からだった。

 1974年8月15日の光復節独立記念日)の式典会場で、朴大統領が短銃で狙撃され、陸英修(ユクヨンス)大統領夫人が被弾して死亡した。犯人は日本旅券をもつ在日韓国人、文世光(ムンセグアン)と分かり、日本大使館は連日、市民のデモに取り巻かれた。

 後宮氏は式典にも列席し、この騒動に大使として対応した。当時を振り返って氏は角田氏にこう言ったという。

 「あのときの、韓国大衆の日本に対する怒りは激しいものでした」。「日本はまたも我が国母を殺した―という声が、あちこちから聞こえてきました」。

 「またも」というのは、明治28年(1895年)の閔妃暗殺という古い事件を韓国人に想起させたからだ。角田氏が、韓国では誰もがその事件を知っているのかと驚くと―

 「ええ、誰でも、中学生でも知っていますよ。なにしろ小説やテレビ、映画などで繰り返し扱っていますから。“忠臣蔵”を知らない日本人はいないでしょう?“閔妃暗殺事件”は、韓国人にとって“忠臣蔵”のようなものですよ」と後宮氏は言った。

 それなのに日本人のほとんどが知らないこのギャップ、、
 角田氏はそこから、いわばゼロから事件を調べ始めた。

 この本を読んで、知らないことが多かったことに自分でも驚く。

 江戸時代は、朝鮮は日本にとって正式の国交がある唯一の国だった。私はこんなことも知らなかった!

 徳川家康は、秀吉の「朝鮮征伐」路線から大転換した。朝鮮からの使節団が1609年を第一回として、江戸時代に通算12回日本に来ている。第4回目からは「朝鮮通信使」という名称になり、毎回300人から500人に及ぶ大使節団だったという。

 「第一回の朝鮮使節団と対応した林羅山をはじめ、毎回日本有数の学者や文人が彼らと接して意見を交換し合った。(略)遠く奥州、北陸、西国などから使節団との交流を求めて来る有識者もあり、一般の人々も使節の宿舎に殺到して詩文の贈答や書画を求めたという。(略)
 鎖国下の日本にとって、朝鮮は正式な外交関係のある唯一の国であった。日本は中国、ポルトガル、オランダ、イギリスなどと通商関係はあったが、幕末に至るまで正式の国交はない。」

 日韓はお互いにさまざまなものを与え合ったのだが、今では韓国料理に欠かすことができない唐辛子も、通信使一行によって種子と栽培法が日本から伝えられたという。

 ほほえましい交流の情景が浮かんでくる。

 この良好な関係は明治維新直後に暗転する。
 権力の中枢に座った維新の志士たちが、はじめから朝鮮を属国にしようと脅迫的な外交姿勢をとり、数々の陰謀を繰り出しながら日清戦争になだれ込んでいく。

 日清戦争とは、朝鮮半島をめぐって日本が仕掛けた戦争で、朝鮮を舞台に戦われた。

日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争である。(略)李氏朝鮮の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが原因となって引き起こされ、主に朝鮮半島遼東半島および黄海で両国は交戦し、日本側の勝利と見なせる日清講和条約下関条約)の調印によって終結した。また、講和条約の会議に出席したのは陸奥宗光外相と伊藤博文首相である。

 講和条約の中で日本は、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島遼東半島を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すことになった。戦争に勝利した日本は、アジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、支払われた賠償金の大部分は軍備拡張費用、軍事費となった。》(wikipedia

 この時期の朝鮮半島にかかわる歴史は、日本人として読むのがつらい。

 いまも日韓は、徴用工はじめ、さまざまな案件でぶつかるが、根底にあるのは、日韓併合条約が有効か無効かという解釈の違いだ。
 日本の強硬な圧力外交を見ていくと「日本は武力で無理やり調印させたから併合条約ははじめから無効だ」という韓国側の言い分にも根拠があると思わざるをえない。

 明治になって日本が対朝鮮政策を転換する意味をもっと知りたい。勉強しよう。

 本書に出てくる勝海舟福沢諭吉の印象的なエピソードを紹介したい。

 《福沢は日清戦争に際し、開戦に持ちこんだ日本の外交と軍隊の運用が無理無体のものとよく知りながら、これは“文明(日本)”の“野蛮(清国)”に対する戦争だと『時事新報』で繰り返し論じた。そして福沢は、日清戦争の勝利に悦びを噴出させる。

 日清戦争を“不義の戦争”と呼んだ勝海舟は、近代日本の進路を誤りと断じ、伊藤、陸奥、福沢に対しても批判を向けている。勝は日本が“西洋型近代国家”になることに反対し、アジアの同盟を構想した。したがって、アジアから脱して西欧諸国と進退を共にして、アジア諸国とは西洋流に接してゆこうという「脱亜論」の福沢への風当りは強い。しかし勝が最も強い批判を向けたのは伊藤博文であった。》(P241)

 勝海舟の存在に少し救われる思いがする。