『日本のいちばん長い日』によせて3

 人類最後の日まで残り1分40秒

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 アメリカの科学雑誌「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」が27日、オンラインで会見をひらき、人類最後の日までの残り時間を象徴的に示す「終末時計」の時刻をこう発表した。

thebulletin.org


 去年1月、「終末時計」の残り時間は、過去最短の「1分40秒」とされ、今年もそれと並んだ。非常に深刻な危機にあるというわけだ。

 去年12月に75周年を迎えたこの科学雑誌は、1945年に、アインシュタインマンハッタン計画で最初の原爆開発に携わった科学者たちが創設。2年後、人類と地球への脅威を伝えようと「終末時計」をはじめた。

 今回、残り時間を(去年と並んで)過去最短にした理由がおもしろい。
 雑誌の責任者のレイチェル・ブロンソン博士は「国際社会は新型コロナウイルスに適切に対応できていない。それは核兵器と気候変動にもいかに準備不足であるかを気付かせた」と述べて、地球規模の課題に国際社会が協調して対処できていないためだと指摘したのだ。

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NHK「国際報道」より

 この会見では、人類はいま目覚めるべきだと「ウェイクアップ・コール」が鳴っているとの表現も使われた。

 なるほど!そのとおり。
 パンデミックにより、世界で200万を超す犠牲者を出しながら、各国が角突き合わせている現状。これじゃ、地球人はまともに核兵器はじめ大事な問題を解決できないな、となるだろう。
 
 《会見には広島県の湯崎知事もビデオメッセージを寄せ、「核抑止力は人間が作った虚構であり、みなが信じるのをやめれば影響力は失われる。私たちはできるだけ多くの人を巻き込んで核兵器の廃絶に向けた力強い機運を作り出す必要がある」と述べて核廃絶への支持と行動を呼びかけた。
 「終末時計」について国連の報道官は27日の記者会見で、深刻に受け止めるべきと指摘したうえで、「『終末時計』は各国に国際協調を通じて核軍縮を進める必要があると訴えている。その一例が国際社会による強力なメッセージとなった核兵器禁止条約の発効であり、もう1つがアメリカとロシアが核軍縮条約の『新START』を5年間延長することだ」と述べて、核保有国が核軍縮の取り組みを強化する必要性を強調した。》(NHKより)
 
 人類は、新型コロナウィルスに知恵を試されている。
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 1945年8月15日の正午の「玉音放送」が終戦を画したとされるが、前日14日昼からの一日は、“24時間の維新”(大宅壮一)と言われるだけあって、波瀾に満ちたものだった。
 『日本のいちばん長い日』の読みどころの一つは、放送―民放などなかった当時は日本放送協会NHK)が唯一の放送機関―にかかわる動きだ。
 最後の24時間に至るまでの経緯を本書はこう描く。

 45年7月26日早朝6時、東京の海外放送受信局がサンフランシスコ放送を傍受し、日本に降伏を求める米英中三国共同宣言=ポツダム宣言が発表されたことがわかった。当時日本政府はソ連を仲介とする和平工作にとりかかっていたから、この宣言は寝耳に水だった。

 政府上層部は緊張に包まれたが、とりあえずソ連からの反応があるまで“静観”することになった。
 国民にはどう発表するか。世界中に放送されたものなので何も発表しないわけにもいかない。あたらずさわらず、戦意を低下させる文言は削除し、政府の公式見解も発表しないことにきまった。新聞はできるだけ小さく、調子を下げて取り扱うよう指導する、政府はこの宣言を無視するらしいと付け加えることは差し支えない。これが政府の報道への方針となった。かなりこまごまと、ニュアンスのレベルまで「指導」している。

 結果、記事からは宣言の以下の箇所は削除された。
 「日本人を民族として奴隷化しまたは国民として滅亡させようとしているものではない」
 「日本国軍隊は、武装解除の後、家庭に還ることを許され、平和的生産的な生活を営む機会を与えられる」

 28日の新聞は、情報局のこうした指令に従って編集され、ほとんどの国民には何の衝撃も与えなかった。
 一方、宣言の発表は、軍部隊からの反発を招いた。前線の部隊は通信機器、ラジオ等で敵側の放送も聞いているので、「反対」を表明しないことには動揺をまぬがれないとの主張に軍部も硬化し、政府に宣言への反対を表明せよと迫った。

 やむなく、政府は積極的には発表しないが、記者の質問に答える形で意思表明をおこなうこととなり、28日、鈴木貫太郎首相が記者会見で「ポツダム宣言カイロ宣言の焼き直しであるから重要視しない」とのべた。ところが重要視しないうんぬんと繰り返すうちに「黙殺」という言葉を使ってしまった。

 新聞は29日朝刊でこれを大きくとりあげ、対外放送網を通じて全世界に伝えられた。ノーコメントの意味で使った「黙殺」がignore(無視する)と訳され、さらに外国の新聞では、日本はポツダム宣言reject(拒絶)したとなってしまった。米英の新聞の論調は硬化した。

 これを後で知った東郷茂徳外相が激怒し、総理談話はソ連からの反応まで静観するとの閣議決定に反すると抗議したが、もはや撤回はできない。この「黙殺」の二字から、米国は原爆投下を、ソ連は参戦を決意したという。(『日本のいちばん長い日』P16)
 報道によって国際的な意思疎通がゆがめられる例である。

 もっとも、東郷外相をふくめ、誰も対ソ和平工作が成功するとは信じていなかった。他に道がないから仕方なくやっていると外相もつねづね語っていたほどだった。

 無為の日が続き、ついに8月6日、広島に原爆が投下される。
 さらに8月8日深夜、待ちに待ったソ連からの回答が来たが、それは宣戦布告の通達で、ソ連軍はすでに国境を突破して攻撃を開始していた。万事窮した。

 8月9日、午前8時、東郷外相が鈴木首相の私邸を訪ね、二人は戦争終結を決意した。午前10時半、宮中において最高戦争指導会議が開かれたが、会議は紛糾。長崎に原爆が投下されたのはこの会議の最中だった。結論が出ないまま中止され、午後2時半から閣議が始まった。
 本土爆撃に来攻した敵機は7月だけで地上機1万2千、艦載機8千。本土の工業地帯、軍基地、都市は次々に灰燼に帰していた。しかもこの秋は、昭和6年以来の大凶作が予想されており、戦う余力は日本に残っていなかった。しかし、阿南陸相は徹底抗戦を強硬に主張した。

 結論が出ないまま堂々巡りで時間が費やされ、閣議は夜10時半に散会。天皇に最終的決裁をあおぐことしか手は残されていなかった。

 午後11時50分、御前会議が御文庫付属の防空壕の一室で開かれた。
 条件を国体護持のみに限る東郷外相らと、国体護持の他に武装解除と戦犯処置を日本人にまかせるなど3項目の条件をつける阿南陸相らと、会議は真っ二つに割れ、10日午前2時を過ぎてもまとまらない。

 「陛下のご聖断を」との鈴木首相の上奏に、天皇は、
 「これ以上戦争を続けることは、わが民族を滅亡させるのみならず、世界人類を一層不幸に陥れるものである。自分としては無辜(むこ)の国民をこれ以上苦しめることは忍びないから、速やかに戦争を終結せしめたい・・」と答えた。

 10日午前2時30分。その場に臨席したものは、声を出して、あるいは声を殺して泣いた。この夜は不思議なことに空襲が一度もなかったという。
 ただちに閣議が再開され、御前会議の決定をそのまま採択した。ただ阿南陸相が「敵が天皇の大権をハッキリ認めることを確認しえない時は、戦争を継続するか」と鈴木首相と米内海相に訊ね、両者とも「継続する」と答え、午前4時、閣議は散会した。東郷外相の頭髪は心労のため、真白になっていたという。

 すぐに「天皇の大権に変更を加うるが如き要求は、これを包含しおらざる了解の下に」ポツダム宣言を受諾する旨の電報が、中立国のスイスとスウェーデンの日本公使に送られた。

 ポツダム宣言受諾の方針を受けて情報局総裁談が10日夜に放送された。だが、そこには「終戦」の表現はなかった。
 「(略)敵米英は最近新たに発明せる新型爆弾を使用して人類歴史上かつて見ざる残虐無道なる惨害を無辜(むこ)の老幼婦女子に与えるに至った。 加うるに昨九月には中立関係にありしソ連が敵側に加わり一方的な宣言の後我に攻撃を加うるに至ったのである。(略)
 今や真に最悪の状態に立ち至ったことを認めざるをえない。正しく国体を護持し、民族の名誉を保持せんとする最後の一線を守るため、政府はもとより最善の努力をなしつつあるが、一億国民にありても、国体の護持のために、あらゆる困難を克服して行くことを期待する」
 あいまいで何を言っているかわからない表現になっている。

 一方、これとほぼ同時刻に、戦争継続ととれる陸軍大臣訓示が新聞社に配布され掲載を要請された。
 「(略)断乎神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ。仮令(たとい)草を喰み土を噛り野に臥するとも断じて戦ふところ死中自ら活あることを信ず、 是即ち七生報国『我一人生きてありせば』てふ楠公救国の精神なると共に・・・」

 こちらは戦争を決してやめないというメッセージになっている。先の情報局総裁談とこの陸軍大臣訓示が同じ11日の新聞に並んで掲載された。これでは国民は何が起きているのかまったく分からなかっただろう。陸相訓示は、軍部の和平妨害策だった。

 ポツダム宣言受諾に抵抗する空気は強く、権力内部の確執は極点に達していた。大宅壮一はこう評している。
「ここに登場する人物は、それぞれ自分の持っている“日本的忠誠心”にしたがって行動し、ぶつかりあっている。だが、ぜんたいをマクロ的に観察し、冷静な判断をくだすという大政治家、大監督がいなかった。そのため、同様の事態におちいった他の国々の場合にはみられない独自の喜劇と悲劇が、出演者の意思にかかわりなく、いたるところでおこった。それだけに、このドラマはスリルとサスペンスにみちた場面を展開した」(序より)

 8月12日午前0時45分、サンフランシスコ放送が、日本側の条件付き受諾の問い合わせへの連合国側の回答を流す。この非公式の回答をめぐって日本の首脳部はまた混乱に陥った。

 焦点の一つになったのが回答文にある「天皇および日本国政府は、連合国司令官にsubject toする」の解釈だった。陸軍は「隷属する」だとし、外務省は「制限の下におかれる」と苦しまぎれの訳を出した。

 ここから両派の動きがあわただしくなる。東郷外相は、連合国回答は不十分ながら国体は護持されるとして受諾の方針に決め、午前11時、天皇から、先方の回答のままでよい、ただちに応諾するよう取運べとの御沙汰を受けた。
 一方、陸海軍統帥部では受諾反対の態度を決め、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は受諾の危険なることを東郷外相より前に上奏している。少壮将校たちは烈しく軍首脳部を突き上げ、阿南陸相も受諾反対を首相に告げた。ただ、米内海相は受諾派だった。

 回答には次の条項もあった。
日本国の最後の政治形態は国民の自由に表現された意志によるものとす」。
 神である天皇の地位を国民の意志によって決めるとは、国体の変革だとの声が大きくなり、テロ、クーデターの情報も流れ、警視庁は危険将校の監視をはじめた。
(つづく)