『日本のいちばん長い日』によせて2

 バイデン氏の大統領就任演説は聞かせる。
 表情にも誠実さがにじんでいる。応援したいなと思った。
 「(共和党の)赤対(民主党の)青、地方対都会、保守対リベラルを対立させるこのuncivil warを、私たちは終わらせなくてはなりません」と言った。

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NHKはuncivilを「野蛮な」と訳した

 Civil warは「内戦」のことで、この場合civilは、外政でなく国内のという意味なのだが、civilには礼節があるという意味もあって、uncivil warすなわち国内の「礼節を欠いた戦争」(朝日新聞訳)をやめようと訴えたのだ。国内の分断、憎しみあいが内戦に匹敵するような烈しさになっていることを示している。

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聴衆のかわりに星条旗と州の旗が立ち並ぶ

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限られた招待客だけが出席した式典


 2万5千人の州兵が守る中、限られた出席者を前に行われた就任式だったが、そこに台湾代表が招かれたことが注目される。

 《台湾外交部(外務省)は台北駐米経済文化代表処(駐米代表部に相当)の蕭美琴代表が20日のバイデン米大統領の就任式に出席したことについて、「台湾の代表が正式招待を受けて出席したのは(国交断交後)初めてだ」とし、「米台が価値観の共有に基づき、緊密で協調的な関係にあることを浮き彫りにした」と称賛した。》(ロイター)

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蕭美琴氏のFBよりhttps://fb.watch/3ahadwe0FS/

 バイデン政権で台湾支援の姿勢は強まりそうだ。
 台湾自身、コロナ対策に見られるように強烈に存在感を見せつけており、国際社会が台湾を「みそっかす」扱いする時代はもう終わったともいえる。
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 きのうのつづき。

 1945年8月15日の朝、叛乱軍が日本放送協会NHK)を占拠した事件は、日本現代史の重要な転換点の一つだった。
 決起派の首謀者の一人、畑中少佐にピストルをつきつけられたのは、放送協会の報道部副部長柳澤恭雄(やなぎさわ・やすお)氏その人。

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ホーチミンと柳澤氏(右) 日本電波ニュース社HPより

 

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畑中健二少佐 Wikipediaより

 柳澤氏が自書に書いたところを少し長いが以下に引用する。貴重な現代史の証言だ。

 

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 十五日午前三時頃、大橋八郎会長(注:放送協会の)、矢部謙次郎国内局長以下放送局の一行は、録音盤(注:天皇の「玉音」を録音したレコード)を持って帰ろうとしたが夜中の危険性ということもあって、放送局の希望で宮内省にあずけた。そして坂下門(二重橋際)の内側で宮中を占拠していた叛乱軍の部隊につかまり監禁された。録音盤は奥深くかくされていたため、それを探しに宮中へ入った決起派の畑中少佐は見つけることができなかった。彼が録音盤の探索をあきらめたのは十五日の朝四時まえである。監禁していた放送局の技術局長を道案内として車に乗せ、放送局へ向かった。

 私は、叛乱軍が来ればどう対処するかに心を集中していた。畑中少佐が放送局にあらわれたのは午前四時をすぎていた。報道部副部長の私のところへ来た彼は、細面、長身の美男子であり、いかにもエリートらしい白皙(はくせき)の将校である。

 私の胸にピストルをつきつけた。
「決起の主旨を国民に放送させろ。させなければ撃つぞ」
 私は無言でいた。放送をさせるわけにはいかない、とそれだけを考えていた。(略)私は放送をさせるわけにはいかないという任務感、集中感ではりつけていた。私は彼に反抗しない。敵意を示さない。彼の心情を理解したいと思いながら、彼の眼とピストルを持つ手と指を見つめていた。ピストルは、森赳近衛第一師団長を射殺してきたピストルである。宮中で録音盤をさがして見つからず、彼は非常に疲れ、極度に緊張していた。彼のあの眼つきは異様そのもので、私は生涯忘れないし、二度と他に見たことがない。互いに多くのことを語っている眼と眼が相対していた。任務を果たしているのだという具体的で切実なものが私を動かしていた。任務に集中すると、こわさが出てこない。ジャーナリストの場合これがきわだっている。危険の中で危険を報道し危険をのりこえる。これは使命感であって、ジャーナリストの性(さが)である。ジャーナリズムの職業が持つ特殊性で、これが本人を行動にかりたてる。ジャーナリストが戦場で戦死するのも、そのきわだった例であろう。

 畑中少佐と私の眼と眼に何か通じるものがあったのだと思う。彼のピストルの引き金の指がゆるみ、手がやわらかくなった。
「やらせてくれよ、たのむ」
 もう脅迫ではない。
「できないんです」
 と私はこたえた。放送ができないことを実際に説明する必要がある。彼をともなって、となりの第一二スタジオ(ニュース専用スタジオ)へ行った。スタジオには、館野守男アナウンサーがいた。空襲下でスタジオが作動しないことを話して、廊下へ出た。企画部、技術部の職員が大勢で彼をとり囲んだ形になった。

 警戒警報、空襲警報が発令されている間は電波は東部軍管区の管理下におかれる。そのために現に今も電波を出せないのである。畑中が放送するためには東部軍の許可が必要であった。放送局と東部軍は直接電話によって連絡している。畑中は東部軍司令官と電話で話し合うことになった。東部軍の参謀長高嶋辰彦大佐が直接、畑中にあきらめるよう説得した。大佐は畑中の士官学校時代の教官であった。畑中は説得されたのであるが、大佐との電話の前も後も彼をかこんだ放送局の職員たちのチームワークが、たくまずして、しかも必死で危機を解決した。畑中少佐はあきらめて放送局を去った。

 彼は八月一五日午前十一時すぎ、皇居側の松林の中で、盟友椎崎二郎中佐と二人、ピストルで自害して果てた。三十三歳であった。
 畑中少佐は阿南陸相らとともに平泉澄東大教授の皇国史観を信奉し、教授の青々塾に所属していた。この史観によれば、天皇の方針、決意が間違っているならば、自分たちの正しい方針を天皇に採用させることが忠君である。この信念に生きていた畑中にとっては無念至極であっただろう。
 平泉教授は、陸軍士官学校で講義するときは短剣を腰にして教室に入ったという。彼は、海軍兵学校でも講義したいと希望したが、井上成美校長はこれを断った。また、当時、東大の和辻哲郎教授(倫理、哲学)は教室で学生にたいし、平泉教授の学説は「信心カラカラだ」と言っていたという。学問ではなく、信心、信仰だとの意味だろう。

 一九九四年(平成六)、私は京都市に畑中健二少佐の実家を訪ね、霊前に冥福をいのり、令兄からくわしく話を聞いた。畑中家は丹波地方の名家で、そこに育った文学好きの少年が彼であった。旧制の三高へ行くことを希望していたが、中学の先生にすすめられ陸軍士官学校に合格する。それでも三高へ行きたがったが、令兄と先生に説得され士官学校へ行ったという。長身なので私は騎兵出身かと思ったが、令兄によれば砲兵であった。
 自殺したときの遺書を、彼とさいごに相対した人だからというので特別に見せてもらった。自分の信念を軍人手帳に立派な字で鉛筆で書いてあった。黒鉛筆で書いて、さいごの部分は赤鉛筆になっていた。大波乱のあと、今わのきわに心を静めて書いたのであろうが、気丈で、端正な性格を思わせるものであった。ひとりの文学青年が戦争をはさんでたどった人生の軌跡に、私は、深い感慨をもよおさずにはいられなかった。私と相対したとき、決死の畑中にたいし、私が反感を持たず真剣に誠意をもって接したことを彼が感じとっていたのではないか、と今にして思う。一期一会、その若き生涯のさいごの朝に彼と相対した私は、いつも彼にたいする温かいものを感じている。
(柳澤恭雄『検閲放送』けやき出版P114~118)

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(つづく)