反骨のジャーナリスト柳澤恭雄さん逝く

takase222007-08-24

きょう、ご縁のある方の訃報が届いた。
「訃報:柳澤恭雄さん98歳(やなぎさわ・やすお=元NHK解説室主管、初代日本電波ニュース社社長)23日、老衰のため死去。報道部副部長だった1945年8月15日の終戦の日未明、当時東京・内幸町にあった放送局に乗り込んできた陸軍少佐から、拳銃を突きつけられ、玉音放送を阻止し徹底抗戦を訴える放送をさせるよう要求されたが、拒否した。ポツダム宣言の受諾決定から玉音放送までを描いた東宝映画「日本のいちばん長い日」でも有名なシーンの一つ。NHKには戦前、取材記者がいなかったが、戦後、独自の取材部門の創設にかかわった。50年にレッドパージで退職。60年、テレビ局向けの通信社として日本電波ニュース社を設立した。」(毎日新聞

2年ほど前にお会いした時には、通いの介護の人がいるだけで、マンションで一人暮らしだった。今の政治とマスコミのだらしなさを厳しく批判し、かくしゃくとされていた。ところが今年5月ごろにお電話したら、「僕はもうダメだね。いつ死ぬかわからない。一日一日何とか生きている状態だよ」とおっしゃっていた。その言葉通り、この夏を超えられなかった。もう一度お会いしたくて、訪問できる日を待っていたのだが、残念だ。

日本電波ニュース社は私の古巣で、この会社には15年以上お世話になった。当時、柳澤さんはすでに会長で、たまにしかお目にかかることはなかったが、凛とした風格があり一本筋が通った方だなと感じていた。
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の爲に太平を開かむと欲す」で知られる終戦詔勅は、皇居の中で音盤(レコード)2枚に録音された。その音盤はNHKに運び込まれて放送されることになっていた。そこに畑中少佐ら青年将校が乱入する。「我々の主張を放送させろ!」と拳銃を突きつけられたのが、当時のNHK報道部副部長の柳澤さんだった。放送阻止に失敗した畑中少佐はそのあと自決する。いわゆる「宮城事件」の一コマである。
戦後、柳澤さんは、長年の夢だったNHKの自主取材を実現するため、記者を募集し採用する。そしてその記者たちに「放送記者」と命名した。
意外に思うかもしれないが、戦前戦中、NHKには「取材」というものがなく、従って「記者」もいなかったのだ。同盟通信(共同通信の前身)からの配信原稿を書き言葉から読む表現に変え、逓信省の検閲を受けてからアナウンサーが読み上げるというのが、NHKのニュースだった。つまり、配信ニュースをただ読むだけ。例外的にNHKが「独自取材」できたのは、気象台での天気予報と株式市況の二つだけだった。
このあたりの事情は、柳澤さんが『検閲放送』という本に書いている。
よく新聞の戦争責任が問われるが、国民を戦争に動員する効果という点から言えば、ラジオとは比較にならないだろう。すでに当時ほとんどの家庭にあったラジオから流される「大本営発表」や軍歌、戦地の兵隊さんからの手紙、それらがどれだけ巨大な影響力を持ったか計り知れない。
大本営発表」を垂れ流すことに罪の意識を持った柳澤さんは、戦後、共産党員になる。部下の「放送記者」たちにも彼に続くものが多く、NHKの報道部の中核が「赤く」なってしまったという。結局、レッドパージで追われ、日本電波ニュース社を作った・・・。
こうした柳澤さんにまつわる「伝説」を酒の席などで先輩方から聞いたものだ。そんな先輩の一人に、イラクで殉職した橋田信介さんがいる。正統派の真面目な報道人であったと同時に、必要ならきわどい取材手法を取ることをためらわなかった。NHKのオーソドックスと左翼のゲリラ的な気風。そんなDNAを橋田さんも引き継いでいたのだろうか。橋田さんのことについては、いつかまた書くことにする。
終戦詔勅の玉音は、NHK放送博物館にある。さっそく、うちの新人たちに聞きに行かせよう。若い人たちが戦争とジャーナリズムについて考えることは、柳澤さんへのよい弔いとなるだろう。