拉致はなぜ見過ごされてきたのか

 一昨日、連載コラム高世仁のニュース・パンフォーカス」の「大統領選挙から見えたアメリカの新しい動き」を公開しました。このブログで触れたアメリカの若者の「左傾化」についてです。ご関心あればお読みください。

www.tsunagi-media.jp

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 15日は横田めぐみさんが43年前に拉致された日だ。
 早紀江さん(84)が14日に会見して「すぐ隣の国なのに、どうしてこんなに長く解決できないのか。子どもたちを返してください」と訴えた。

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 《6月に父滋さんが亡くなり、未帰還の政府公認被害者の親で生存しているのは、早紀江さんと、有本恵子さんの父明弘さん(92)だけになった。この現状を「異常な状態が起きている」とし、「主人があれだけ一生懸命頑張っても、一目も見ることができなかった。むなしいですよね」。
 14日は滋さんの誕生日。拉致される前日にめぐみさんがプレゼントした1本のくしはいま、生前に肌身離さず持っていた滋さんの引き出しにしまってあるという。早紀江さんは会見でくしを示し、「めぐみちゃんに見せてあげるために大事にとっている」と語った。》
朝日新聞

 「異常な状態」という表現を使っているが、私も以前から、なぜ拉致という重大な犯罪が見過ごされてきたのかという基本的なことがずっと疑問のままだ。

 というのは、北朝鮮工作船を使って工作員を日本に送り込んでいたことはめぐみさん拉致のずっと前から分かっていたことだったし、拉致についても捜査機関の中では知られていただろうと思うからだ。

 2002年9月17日の小泉純一郎首相の電撃訪朝のあと、各紙が過去、いわゆる北朝鮮スパイ事件が相次いで摘発されていたとの記事を出した。例えば―

読売新聞夕刊 2002年9月27日
北朝鮮工作員事件、摘発50件 新潟「上陸・脱出」20件超す

 《北朝鮮工作員による事件が戦後、非公開の事件も含め約五十件摘発されていることが、二十七日公表の警察白書でわかった。一方、新潟周辺の海岸から工作員が上陸・脱出した事件は二十数件に上ることも明らかになった。警察当局は「新潟沿岸は、佐渡島などの中継地点があるため、工作船が接近しやすく、拉致の格好の現場になったのではないか」と分析する。
 「新潟から出入りした工作員は二十数件ぐらいと思う。うち半数は韓国で、半数は日本で検挙している」
 一九八八年三月十日。非公開で行われた新潟県議会建設公安委員会で、同県警の水田竜二警備部長(当時)がそう答弁した。
 同県警はこの委員会で初めて、七二年三月、北朝鮮工作員二人を佐渡島の海岸で逮捕していたことを明らかにした。二人は、脱出を図ろうと岩場の洞くつに潜んで工作船を待っていた。
 さらに六二年九月には、対岸の同県村上市の海岸で、工作船から上陸するために出た小型ボートが転覆。泳いで海岸にたどり着いた工作員三人を、不法入国の疑いで逮捕した。六四年五月に逮捕された北朝鮮工作員も「六一年に村上市の海岸から上陸した」と供述していた。
 朝鮮半島から日本を目指して航海すると、佐渡島の金北山(標高1172メートル)や、新潟市近郊の弥彦山(同634メートル)、柏崎市の米山(同993メートル)などが上陸の重要目標になる。
 このため同県警では六〇年代から、佐渡島柏崎市、それに村上市を中心にした海岸線の警戒を強化し始め、「月の出ない夜は、工作員が上陸しそうな海岸線に捜査員を張り付けていた」(県警OB)という。
 だが、こうした警戒にもかかわらず、七七年十一月には新潟市の海岸で横田めぐみさん(失跡当時十三歳)が、七八年七月には、柏崎市の海岸で、蓮池薫さん(同二十歳)と奥土祐木子さん(同二十二歳)が拉致(らち)されている。
 七八年六月ごろに失跡した田口八重子さん(同二十二歳)も、新潟付近の海岸から連れ去られた可能性が指摘されており、五人目の生存者とみられる曽我ひとみさん(同十九歳)が七八年八月に母親と姿を消したのも佐渡島の海岸近くだった。
 警察庁が、北朝鮮による日本人拉致事件を本格的に捜査し始めるのは七九年秋以降のこと。それ以前は、警察にとっても、「海岸線から、日本人が拉致されるということは想定外の事件だった。しかし、新潟以外にも日本海沿岸を中心に工作員の侵入事件が続いていた」(警察庁幹部)という。》

 はじめて分かったかのような書きぶりだが、こうした事実はもっと前から知られていた。
 驚くような事件もある。

1970年4月14日「不審船発砲事件」
 兵庫県城崎郡竹野町猫崎の東1.8キロ付近で、午前0時15分ごろ、無灯火で動く不審船を海保が発見し、停止を求めると時速20ノットで北方に逃走。巡視船が300メートルまで接近して写真撮影をしたところ、不審船から自動小銃で2,3回連射された。

 

 1999年には能登沖不審船事件が、また2001年には奄美沖不審船事件が起きているが、これはずっと前、1970年の話だ。

 そこで海保の巡視船が「自動小銃で2,3回連射された」!!というのだ。
 日本の領海、しかも岸から眼と鼻の先で・・。
 こんなとんでもない事件が、なぜ広く国民に知らされぬままに放置されてきたのか。
(つづく)
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 きのう紹介した新座市の平林寺は、「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱が再興し、松平家菩提寺となった。松平一族の廟所がこのお寺の観光スポットの一つになっている。

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松平家の代々の墓が並ぶ

 おや、あの人がここに眠っているのか、と興味をひかれたのは松永安左エ門の墓だ。

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松永安左エ門(1875-1971)

 数年前、日本の電力事業の歴史を番組にしようと調べたことがあった。企画はぽしゃったのだが、そのとき、「電力王」、「電力の鬼」と呼ばれた松永の存在を知った。

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島原・天草の一揆供養塔があった。松平信綱がこの乱を収めたことを知った。敵方を供養するのは日本では古来から行われてきたことだ。後方が松永安左エ門夫妻の墓

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 明治維新後、電力事業は自由競争ではじまった。
 50以上の会社がそれぞれ自前の電柱と電線で顧客を奪い合ったので、ライバル社の電線を切ったりといったドタバタもあり、電力の歴史はとてもおもしろい。

 大正から昭和初期にかけての「電力戦国時代」に風雲児として現れたのが松永だった。福岡の小さい会社を出発点に、関西さらに東京へと攻めのぼり「東京電力」を設立。ライバルの老舗「東京電燈」と激闘を演じる。後の東電社長・会長で、福島原発を建設した木川田一隆はこのとき「東京電燈」にいた。この「東力戦争」は三井財閥の仲介で「手打ち」となり、新会社「東京電燈」が発足、これが後の東京電力につながっていく

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 また、アフガンに水路をつくった中村哲医師について調べていたら、哲先生の父親の中村勉氏が松永に目をかけられ支援されていたことを知った。

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 というわけで、いろんなところで引っかかっていた人だが、この人、「耳庵」の号をもつ「近代三茶人」の一人なのだそうだ。平林寺の峰尾大休老師と深い親交があり、晩年は寺向かいの睡足軒(すいそくけん)を別居として我流の茶会を楽しんだという。

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睡足軒は無料で公開されている。紅葉が池に映えて美しい

 もちろん会ったこともない人だが、知り合いの足跡を知ったような気になる。