小春日和というのだろうが、それにしても気持ち悪いほどあたたかい。
一日に3本映画を観た。こんな体験は初めてだ。
スターリンの『国葬』という映画を渋谷でやっているというので、監督の名前も知らずに観に行った。近年発見されたソ連の記録フィルムを編集した映画である。
スターリンやソ連の歴史などによほど関心のある人でないと飽きてしまいそうな映画である。寝不足もあって、私もときどきうとうとした。
ナレーションもなく、葬儀の一日のさまざまな情景が次から次へと流れる。
棺に眠るスターリン、空港に着く弔問の外国共産党幹部の出迎え、幹部らに担がれていく棺、広場に集まった群衆とソ連共産党リーダーたちの演説、ソ連全土で一斉に響く号砲や汽笛に直立して哀悼する人民(バクー油田の労働者からタイガの鋸を持つ伐採労働者、コルホーズの農民などなど)。映像の専門家が全国に派遣され、国家事業として撮影された映像だから、クオリティはすばらしい。
最後にスターリン時代、2700万人が粛清されて処刑、投獄、拷問、収容所送りなどに処せられ、1500万人が餓死したとのテロップが出る。
観終わると不思議な「すごみ」を感じた。
ロズニツァ監督の3本立て上映と知り、あとの2本も観ることにした。
スターリン時代にでっちあげられた反革命事件の裁判をアーカイブ映像で描く『粛清裁判』とドイツのナチ強制収容所を訪れる観光客を観察する『アウステルリッツ』だ。
《20世紀最大級のスペクタクルとしてのスターリンの国葬、スターリンの独裁体制と後の大静粛につながる裁判———そして人類史上最大の悪が行われたホロコーストの現場。時代と群衆に眼差しを向け、映画に新たな視座を提示する、鬼才セルゲイ・ロズニツァ作品、待望の日本初公開。》
この3本を「群衆」というテーマでまとめて上映している。たしかに3本とも主人公は群衆だ。
『国葬』では、偉大な指導者の死に嗚咽する人は何を思っていたのか、この群衆の中には粛清された人の親族もいたのだろう、などと想像をめぐらせた。『粛清裁判』では、民衆が「革命を裏切るものは銃殺せよ」とデモを繰り広げ、「銃殺」と判決が下されると、法廷に傍聴に詰めかけた、たぶん千人を超す人びとが一斉に歓喜の声をあげる。「群衆」に恐怖をおぼえる。
『アウステルリッツ』は、収容所施設の詳細や展示物などはいっさい登場せず、カメラはひたすらツーリストの姿を映し出す。サングラス、短パンのごく普通の欧州の若者たちが大挙して押し寄せる。はりつけのかっこうでふざけて写真を撮る人。首を垂れて思いに沈む人。「労働すれば自由になる」という収容所の標語に群がり、嬉々として記念撮影する人々。さまざまな表情に、自分ならどうするかな、と考えさせられる。
観察映画というジャンルになるらしいが、ロズニツァ監督はこう述べている。
《私たちは自らの過去を忘却し、そのことで人間と社会に劣化が起きている事を理解する必要があると思いました。そして私は強制収容所を訪れる観光客にカメラを向けました。いかしそれは彼らを批判するためではありません。私はそこに映る何も美化されず、冒涜もせず、そして協調もされていない、ホロコーストの記憶の現在の在り方を正確に伝えたかったのです》
私は3本のなかでは1930年に反革命組織として摘発された「産業党」の幹部9人を裁いた『粛清裁判』(The Trial)にもっとも感銘を受けた。
外国の帝国主義国の手先として反革命組織をつくってサボタージュを行ったというのは完全な捏造だ。だから裁判は猿芝居なのだが、被告たちは全員がやってもいない罪を認め(中には涙声で)懺悔し更生を誓う。
最後に裁判関係者のその後がテロップで流れる。
激しい口調で被告らを糾弾し、奴らを絶滅しなければならないと死刑を求刑した検事は、1938年、ファシスト組織のメンバーとして銃殺に処せられ、判決を言い渡した裁判長ヴィシンスキーはのちに検事総長から外務大臣へと出世するが最後は自殺する。
そしてみんないなくなった・・・である。恐ろしさに鳥肌が立つが、全体主義のもとで現実に起きたことだ。
12月11日までシアター・イメージフォーラムで上映中です。
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きのうの北朝鮮スパイ事件のつづき。
きのう紹介した不審船事件だが、海上保安庁はこれまで確認した「過去の不審船・工作船事例」として以下の21例(21隻)をHPに載せている。
https://www.kaiho.mlit.go.jp/info/books/report2003/special01/01_02.html
①昭和38年(1963年)6月1日(山形県酒田市十里塚海岸沖)
漁業者からの通報により、巡視船が酒田市十里塚海岸沖約1kmにて無灯火の不審船を発見、追跡するも停船命令に応じず、逃走
②昭和45年(1970年)4月14日(兵庫県城崎郡竹野町切浜沖)
巡視船が兵庫県城崎郡竹野町切浜沖約500mにて無灯火の不審船を発見、追跡中の巡視艇「あさぎり」に対し銃撃。追跡するも停船させるに至らず
③昭和46年(1971年)8月26日(青森県西津軽郡艫作埼沖)
海上自衛隊からの通報により、海上保安庁航空機が青森県艫作埼沖約96海里(約178km)で漁船型の不審船を発見、追跡するも逃走
④昭和46年(1971年)8月27日(北海道檜山郡江差港沖)
海上保安庁航空機が北海道檜山郡江差港沖約110海里(約200km)にて漁船型の不審船を発見、追跡するも逃走
⑤昭和46年(1971年)10月2日(鹿児島県指宿郡頴娃町馬渡海岸沖)
海上保安庁航空機が鹿児島県指宿郡頴娃町馬渡海岸沖の草垣島約3海里(約6km)にて不審船を発見、巡視船により追跡するも停船命令に応じず逃走
⑥昭和47年(1972年)4月10日(石川県鳳至郡門前町猿山岬沖)
巡視艇が石川県鳳至郡門前町猿山岬沖約2.8海里(約5km)にて不審船を発見、追跡するも逃走
⑦昭和50年(1975年)6月14日(石川県鳳至郡門前町猿山岬沖)
海上保安庁航空機が石川県鳳至郡門前町猿山岬沖約70海里(約130km)にて漁船型の不審船を発見、巡視船艇により追跡するも逃走
⑧昭和52年(1977年)7月23日(福岡県宗像郡大島村沖ノ島沖)
巡視船が福岡県宗像郡大島村沖ノ島沖約8.6海里(約16km)にて漁船型の不審船を発見、追跡するも停船命令に応じず逃走
⑨昭和52年(1977年)10月17日(島根県浜田市浜田港沖)
漁業者からの通報により、海上保安庁航空機が島根県浜田市浜田港沖約8海里(約15km)にて漁船型の不審船を発見、巡視船艇・航空機により追跡するも逃走
⑩昭和55年(1980年)3月11日(京都府竹野郡丹後町経ヶ岬沖)
海上保安庁航空機が京都府竹野郡丹後町経ヶ岬沖約23海里(約43km)にて漁船型の不審船を発見、追跡するも逃走
⑪昭和55年(1980年)3月12日(京都府竹野郡丹後町経ヶ岬沖)
巡視船が京都府竹野郡丹後町経ヶ岬沖約24海里(約44km)にて漁船型の無灯火の不審船を発見、追跡するも逃走
⑫昭和55年(1980年)3月14日(京都府竹野郡丹後町経ヶ岬沖)
海上保安庁航空機が京都府竹野郡丹後町経ヶ岬沖約25.5海里(約47km)にて徘徊している漁船型の不審船を発見、巡視船艇により追跡するも逃走
⑬昭和55年(1980年)4月26日(長崎県対馬郷埼沖)
巡視艇が長崎県対馬郷埼沖約8海里(約15km)にて無灯火の不審船を発見、追跡するも停船命令に応じず逃走
⑭昭和55年(1980年)5月17日(長崎県対馬神埼沖)
漁業者からの通報により、海上保安庁航空機が長崎県対馬神埼沖約32海里(約60km)にて徘徊している漁船型の不審船を発見、巡視船艇で確認に当たるも発見できず
⑮昭和55年(1980年)6月11日(兵庫県城崎郡香住町余部埼沖)
巡視船が兵庫県城崎郡香住町余部埼沖約12.5海里(約23km)にて白灯を点じた漁船型の不審船及び余部埼沖約9.4海里(約17km)にて無灯火小型船を発見、巡視船艇・航空機により追跡するも当該不審船はレーダー映像上で無灯火小型船と重なった後、逃走
⑯昭和56年(1981年)8月6日(石川県輪島市舳倉島沖)
海上保安庁航空機が石川県輪島市舳倉島沖約173海里(約320km)の大和堆にて漁船型の不審船を発見、巡視船艇・航空機により追跡するも逃走
⑰昭和60年(1985年)4月25日(宮崎県日南市鵜戸埼沖)
県取締船が宮崎県日南市鵜戸埼沖約11.2海里(約20km)の日向灘にて漁船型の不審船を発見、通報を受けた巡視船艇・航空機により追跡するも停船命令に応じず逃走
⑱平成2年(1990年)10月28日(福井県三方郡美浜町久々子海岸)
福井県三方郡美浜町久々子海岸に漂着していた木造小型船船内に乱数表、換字表が遺留されていたほか、2遺体とゴムボート等が発見された
⑲⑳平成11年(1999年)3月23日(石川県能登半島沖)
海上自衛隊からの通報により、巡視船艇・航空機が石川県能登半島沖約33海里(約60km)及び44海里(約80km)にて漁船型の不審船2隻を発見、停船命令及び威嚇射撃を実施するも該船は逃走
㉑平成13年(2001年)12月22日(鹿児島県奄美大島西方)
海上自衛隊からの通報により、巡視船艇・航空機が鹿児島県奄美大島沖約126海里 (約230 km)の九州南西海域にて不審船を発見、威嚇射撃を実施するも該船は停船せず、巡視船に対して小銃などによる射撃を行ったため正当防衛射撃を実施
その後該船は爆発して沈没した
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不審船といっても、これらは中国の船でもロシアの船でもなく、みな北朝鮮の工作船である。
21の沈没した北朝鮮工作船は引き揚げられて海上保安庁の横浜の資料館に展示されてある。世界で唯一、北朝鮮工作船の全貌が見られる貴重な場所なのだが、ほとんど知られていないようで、いつ行ってもガラガラ。「独り占め」できますよ。機会があればぜひどうぞ。
上の事例はこの工作母船と同型だと分かる。18は海岸ギリギリまで近づく子船で、母船の後部に格納されており、必要になれば観音開きになっている後尾から外に出される。(横浜の資料館には子船も展示されている)
このように北朝鮮は工作船でひんぱんに日本の海岸に侵入してきていた。そしてその事実を日本政府も知っていた。