電力自由化を勉強しよう3

takase222012-01-20

東京でははじめての雪が降った。
空を見上げて物思いにふけりたいところだが、ばたばたと出勤した。
夕刊にこんなニュースが。
《日本が米国との友好の印として首都ワシントンのポトマック河畔にサクラの木を寄贈してから今年で100年になるのを記念し、米政府が日本にハナミズキ3000本を贈ることが分かった。カート・キャンベル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)が19日、明らかにした》
 次官補は、「友情への感謝と尊敬を込めた返礼としたい」と述べた。植樹地としては、東京と、東日本大震災の被災地を検討しているという。1912年に日本が贈ったサクラに対し、米国は15年に返礼としてハナミズキ40本を贈ったが、その多くが、太平洋戦争中に「敵国の木」と見なされ、所在不明になっている》( 読売新聞)
桜とハナミズキについては以前書いたが、花一つにも政治がかんでいることがある。。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20100506
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さて、朝刊の一面に事故原発第2号機の格納容器内を撮影した写真が載った。
東京電力は19日、福島第1原発2号機の原子炉格納容器内を、工業用内視鏡などを使って初めて直接調査した。格納容器につながる貫通口から内視鏡を入れ、内部を約30分間撮影。配管や内壁など、見えた範囲で目立った損傷は確認できず、水面も見えなかった。
調査は、廃炉に向けた作業の一環で、炉心溶融メルトダウン)した核燃料が溶け落ちているとみられる格納容器内の様子や汚染水の水位、内部の温度などを調べるのが目的》
東電は動画から切り取った静止画7枚を公表したのだったが、結局は、水位も分からなければ、どこが壊れているかも判明しなかったのである。
実際、写真を見ても全然分からない。
《どれも、放射線の影響で全体に白い斑点が映っている。映っていた配管は貫通口出口付近や 上部にあるもので、目立った破損は見られなかった。内壁は、高温の影響などで塗料がうろこ状にはがれている。湿度が高く天井部分が結露した状態になっており、上から水滴がしたたって「風呂場のような状態で視界が悪い」(東電)という》(毎日新聞
《東電は「今日の撮影は最初の一歩。燃料にたどり着くには新たな技術開発が必要で時間がかかる」としている》(東京新聞
溶け落ちた燃料の様子も全然写っていないから分からない。
やっぱりなあ。
チェルノブイリでは、既に事故後25年も経つのに、これから廃炉をふくむ後始末に100年をみている。事故原発廃炉がいかに困難かを示しているが、今回の東電の撮影は、あらためてそのことを確認するものだ。
30〜40年で廃炉を終えると政府・東電は宣言した。
《政府と東京電力は21日、福島第一原発1〜4号機の廃炉に向けた工程表を発表した。2年以内に使用済み燃料プールの燃料取り出しに着手、20〜25年後までに溶け落ちた燃料を取り出し、30〜40年後までに建屋を解体し廃炉を終える目標。ただ、世界にも前例がなく、新たな技術開発が必要になるなど課題も多い》(去年12月22日、朝日新聞
こんな期間ではすまないと私は予言しておく。
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電力自由化の勉強続き。
きのうは、駆け足で、日本の電力史を見た。電力は産業の背骨のようなものだから、この歴史には「国のかたち」が現れており、またとても面白い人物や組織が登場してくる。
その一人に、「電力王」または「電力の鬼」と言われた松永安左エ門がいた。
大正から昭和初期「電力戦国時代」の激動期をしたたかに生きた松永は、福沢諭吉の弟子で「反官」精神あふれる男だった。
「電力戦争」の主役だった彼の動きから、当時をイメージしていただこう。
松永は壱岐の出身で、福岡に市電を走らせた「福博電気軌道」を拠点に、「関西水力電気」と「名古屋電燈」と合併させて「関西電気」を設立。さらに「関西電気」と「九州電燈鉄道」を統合して「東邦電力」を設立し、阪急電鉄小林一三と組んで、東京に乗り込んで行った。迎え撃ったのは老舗の「東京電燈」だ。
松永は、「群馬電力」と「早川電力」を合併させた「東京電力」(東邦電力の子会社)を盾に攻勢に出た。このとき、松永の敵方である「東京電燈」に、後に松永を師と仰ぐことになる木川田一隆(後の東電社長・会長で、福島原発を建設した)がいた。
この「東電・東力戦争」は三井財閥池田成彬の仲介で手打ちとなり、新会社「東京電燈」が発足し、これが後の東京電力につながっていく。
もう、このあたりは、映画が何本も作れるほどの錚々たる顔ぶれとドラマがある。
ともあれ、こんなふうに、電気は自由な売り買いにまかされ、戦時体制の確立までは、電力会社は激しい淘汰にさらされていたのである。
(つづく)