現代における冒険とは

 台風が列島から遠ざかり、連日の雨がようやく上がったので、久しぶりに自転車でまち歩きに出た。

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 あちこちで金木犀の甘い香りがただよう。すっかり花を落として地面が鮮やかな橙色になっているところも数か所通った。

 行き先を決めずにペダルをこいで国立市の矢川方面に行くと、稲刈りが済んで「はぜ掛け」してある田んぼに出た。東京にも「はぜ掛け」しているところがあるのか。

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 そして今どき、案山子(かかし)が。アマビエ案山子まで。まあ、鳥除けの効能より、ご愛嬌なのだろう。

 今の住所にもう10年以上住んでいるのに、半径5キロ以内でも見たことがない新鮮な風景が広がっている。
 こういう発見があるから、自転車まち歩きはおもしろい。
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 平出和也さんと中島健郎さんのピオレドール賞受賞、K2登頂の小松由佳さんと、続けて冒険家を紹介した。

 私は、30年近く前から「地平線会議」という「探検・冒険から登山、旅、さらには民族調査やボランティア活動まで、世界を舞台に活動を続けている行動者たちのネットワーク」(HPより)に顔を出しているので、冒険者の知り合いも多い。

www.chiheisen.net

 もともと、型破りなことをする人は好きだし尊敬している。

 では、現代における冒険とは何か。
 冒険論の論客といえば、探検家・作家の角幡唯介さんの名が挙がるが、NHKの「視点・論点」という、各分野の権威とされる人が10分間話をする番組に出演していた。

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視点・論点」(8月19日)より

 「現代と冒険」と題して、とても興味深い論旨を展開していた。
 冒険を、効率、達成などをベースにする「近代」の価値観との関係で捉えた、堂々たる文明論になっている。以下は、大要。

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 今の時代、冒険をすることがだんだん難しくなっている

 まず、冒険の定義について。
 ジャーナリストの本多勝一氏は、「危険性」と「主体性」の二つをあげた。「危険性」とは命が脅かされるという意味で、ジェットコースターはスリルがあっても安全を確保されているので冒険ではない。また、戦争に兵士として送られるのは、自らの意思ではないので冒険ではない。

 だが、これが今の時代にもあてはまるかは疑問だ。
 ヒマラヤ登山は商業ツアー化して、今では登山者がガイドに山頂まで引率してもらう形になっている。登山者は自分の意思で危険な山頂をめざすから本多氏の2条件はクリアしているが、冒険と呼ぶには決定的なものが欠けている。
 それは「無謀性」だ。

 現代のエベレスト登山は、かなりの部分がマニュアル化され、お膳立てされるので、登山経験のない素人でも登れると思うようになった。無謀ではなくなったのだ。

 冒険には「危険性」や「主体性」以前の条件として「未知性」が必要だ。
 私は、冒険の本質を、社会や時代のシステムの外に飛び出すという意味で「脱システム」と呼ぶ
 神話をみても、英雄物語は「未知」の世界へ旅立ち、勝利を収めて帰還するパターンを踏む。人類が根源的に冒険を「脱システム」として捉えている証しだ。

 冒険を「脱システム」と捉えると、現代において冒険が難しくなってきた理由が見えてくる。
 「脱システム」のもっとも典型的なものは、地理的な探検だ。地図とはその時代や社会のシステムがどこまで広がっているかを示すメディアだ。地図の外側にある「未知」をめざすかつての探検は、脱システムとして非常に分かりやすい活動だった。

 しかし、今や地球上のすべての表面は地図に覆われ、地図の外側は存在しない。だから、今、冒険は、地図とは別の観点で「脱システム」を試みなければならないが、それが非常に難しい。

 「近代登山」という言葉に表象されるように、今の冒険の基本的フォーマットは近代に出来上がった。どこかに「到達する」、何かを「計画して達成する」、といった近代的価値観が典型的に表れたのが冒険の世界だった

 20世紀に入ると、北極圏、南極圏、エベレストが制覇され、それ以下の目標地点も次々に到達されて、今では新たに行くべき場所などない。
 選択肢が失われ、極点やエベレストなど限定されたゴールに人々が群がり、「単独」や「無補給」、年齢、スピードといった基準で勝ちを競い合っている。現代の冒険はスポーツ化している

 これは矛盾である。
 冒険はシステムの外側に「無秩序な混沌」を目指すものだが、スポーツは逆に「管理された競技場」というシステム内部で行われるものだからだ。システムの外に行くべき冒険が、今ではスポーツというシステム的なものに吸収されている。

 どこかに「到達する」ことを目指す限り、いま冒険はスポーツ化せざるをえない

 では「到達する」ことから逃れた、新しい現代の冒険とは何なのか

 かつて私は、その実践として、「極夜」の探検に行った。
 冬の極地では、数か月にわたり太陽が昇らない「極夜」という現象が起こるが、私はその暗黒の世界を80日間さまよった。我々の日常生活を成り立たせている太陽の運行こそ最大のシステムだと捉えれば、「極夜」はそのシステムの外にある完全なる未知の世界だ。北極という場所ではなく、極夜という現象が冒険の対象だ。

 冒険はなぜ難しくなったのか。
 テクノロジーの発達でシステムが膨張し、その外側に広がる未知の領域が極端に狭くなった。その結果、行く所がなくなり、冒険はスポーツ化した。

 しかし、ことの本質は実は、こうした物理的なシステムの膨張よりも、むしろ人間の思考回路がそれに適合してしまったことにある
 人間の思考回路は、時代の常識や枠組みに制約を受ける。
 冒険がスポーツ化するのは、我々の考えそのものが、「到達する」ことに価値があるという近代的価値規範にとらわれているからだ。

 日常生活も、我々の思考回路はシステムの制約を受ける。
 スマホで事前に情報を検索することが当たり前になり、何でも事前に予期し、未知の要素を排除しておかないと気持ちが落ち着かなくなった。

 現実に起きる物事が、事前に行った予期の確認作業と化し、目の前の物事や出来事に没入することができなくなっている。冒険が困難になった真の要因はここにある。

 いまわれわれは未来を予期できない状況を極端に避けたがっている。
 情報に飼いならされ、管理されることに慣れ切った精神が、冒険を難しくさせている。

 システムまかせにすれば自分で考える必要はない。
 しかし、システムの外に飛び出せば、決まったやり方がないから、冒険者は生きるための行動判断を自分で下さなければならない。
 自らの判断の結果として、命を持続させることができたとき、生きている喜びを見出すことができる。もし冒険をすることに意味があるとしたら、ここだと思う

 機械や他者に判断を丸投げしても、そこに生きる喜びはない。
 心のなかで将来に不安を感じている今こそ、自分で考え、自らの判断で行動を選択することの重要性が増している

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 すごい!
 説得力ある立論だ。冒険の精神が現代の閉塞感を打ち破るという結論もすばらしい。
 私も冒険がしてみたくなるが、命をかけないと冒険はできないのか。冒険とは、ごく限られた人々のものなのだろうか。
(つづく)