チベットに潜入した十人の日本人

 近所の白木蓮がぱあっと開いた。おお、と声をあげたくなる。

 もう春分だ。暑さ寒さも彼岸まで。ご先祖の供養をさぼっていたのを思い出し、遺影と遺骨を置いてある出窓の「ご先祖スペース」の水を入れ替えて線香を立てた。
 20日から「初候 雀始巣(すずめ、はじめてすくう)」、25日から「次候 桜始開(さくら、はじめてひらく)」、30日から「末候 雷乃発声(かみなり、すなわちこえをはっす)」。東京ではきのう、気象庁がサクラの開花を発表した。ウドやタラノメもそろそろで、楽しみだ。
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 20日(月)午後、江本嘉伸さんの講演会があった。23年前に初版で立派な上下巻の単行本『西蔵漂泊 チベットに潜入した十人の日本人』が出たが、今回、その改訂新版が文庫で出版されたのを記念したもの。場所は新宿歴史博物館で、定員の120は満席になった。

 以下、講演会のレジュメから―その十人とは

明治時代:仏教の真価を追う旅、そして政治工作のための情報収集
 能海 寛(のうみゆたか)東本願寺派僧侶
 河口慧海(かわぐちえかい)黄檗宗僧侶
 寺本婉雅(てらもとえんが)東本願寺派僧侶
 成田安輝(なりたやすてる)外務省特別任務

大正時代:冒険旅行と仏教交流
 矢島保治郎(やじまやすじろう)冒険旅行家
 青木文教(あおきぶんきょう)西本願寺派僧侶
 多田等観(ただとうかん)西本願寺派僧侶

昭和時代:情報員として
 野元甚蔵(のもとじんぞう)陸軍特務機関モンゴル語研修生
 木村肥佐生(きむらひさお)興亜義塾塾生
 西川一三(にしかわかずみ)興亜義塾塾生(木村の一期下)

 江本さんによると、これだけの人材が、秘境チベットに潜入したのは日本だけではないかという。とりわけ明治の日本人に、どうしてこんなに行動力があったのかを描きたかったという。
 明治維新による王政復古は神道の重視と廃仏運動をもたらした。そこで、日本の仏教界に、「仏教の本質は何か」という問いかけが生まれた。サンスクリット語で書かれた大蔵経がインドからチベットに伝えられ、そこに存在する。その情報によって、日本の仏教教団が動き出した。ことは教団の存立基盤にかかわる。潜入行は命がけだった。現に、最初に挙げた能海寛は、雲南省大理からの手紙を最後に行方不明になっている。
 講演会で印象に残ったエピソードは、ダライ・ラマ13世〈現在の14世の先代〉が多田等観に非常に厚く信頼していたことで、多田が十年の修行を終えて帰国しようとしたとき、「ダライ・ラマと枕を並べて名残を惜しんで話しをしながら寝についた」(多田)ほどだったという。多田は、チベット大蔵経をはじめ2万4千部超という膨大な文献を日本に持って帰ったが、これは、チベットの学者たちが前例がないと反対したのを、法王が特別に許可して可能になったという。
 1895年に実験を握った13世は、清、英、露の干渉と闘うことになる。そのとき、同じ仏教国で、日清、日露の戦争に勝った日本に、チベットの独立と近代化の後ろ盾になってくれるのではと大きな期待を寄せた可能性があると江本さんは言う。それが多田への好意の一つの要因だったのではないかと。しかし、日本は結局、チベットを見捨てることになる。チベットは紆余曲折を経て、独立することを妨げられて今にいたり、現在、チベット自治区四川省(カム地方)、青海省(アムド地方)いずれもすさまじい漢族化が進んでいる。
 時代背景と日本とチベットの関係のなかにこの十人を置いてみると、日本という国家の近代史が生々しく見えてくる。「解説」で貞兼綾子氏(チベット文化研究者)はこう書いている。
 《現在、チベットと日本との関係は政治的な思惑もあって自由に語れない部分があることは確かである。しかし、本書の十名全員のチベット行が、「命を賭して」という時代であったからこそ、そこに往来した無数の有縁のチベット人やモンゴル人、中国人、あるいは日本人同士、その関係性のなかに、チベットと日本の関係の本質が照射されているように思う》。
 江本さんはかつて読売新聞で、「南北両側からのエベレスト(チョモランマ)登山取材、北極、中央アジアチベット横断、黄河源流探検など、辺境・極地の取材多数」という名物記者だった。現在は「行動者たちのネットワーク」の「地平線会議」代表世話人をつとめる。本で紹介した十人のような行動力を持つ若い人を育てようという江本さんの心意気が、地平線会議を引っ張っているのだろうと感慨深く講演を聞いた。私も地平線会議で末席を汚している一人だが(そして、この会でかみさんと知り合ったのだが)、先人たちの生き方にあらためて学びたいと思う。
 地平線会議については、http://www.chiheisen.net/

パーティで、野元さんの息子さん(左)と江本さん(右)