「懐かしい未来」再読

 タチアオイ
 華やかな花なので、帰化植物かと思っていたら、2年前、尾形光琳300年忌記念特別展を観にいって、古くからこの列島で愛でられてきたことを知った。『四季草花図巻』に日本の代表的な四季の花の一つとして出てくるし、『孔雀立葵図屏風』はタイトル通りタチアオイが主役だ。薬草として入ってきたとのことで、なんと、万葉集にも詠われているという。日本に運んできたのは、遣隋使でもあったろうか。想像が広がる。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20150520
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 前回のつづき。
 ヘレナ・ノーバーグ・ホッジの『ラダック 懐かしい未来』という本がある。たまたま10年ぶりに読んで大きな感銘を受けた。鬼海弘雄さんの「懐かしい未来」という言葉に強く反応してしまったのは、そのせいだ。渡辺京二の近代批判に通じるものがあるとも思い、同人誌に小文を書いた。それを多少修正しながら、何回かに分けて紹介したい。
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 トランプ米国大統領の就任が世界を揺るがし続けている。この事態を俯瞰して見れば、グローバル経済の見直しといえるだろう。西谷修は大統領選挙をこう評した。
 「選挙の地平は、保守とリベラル、あるいは人権感覚ではなく、「グローバル経済」の見直しだった。グローバル経済によってアメリカ社会が崩壊している、そのことにアメリカの人びと自身が気づくということは、それほど症状が深刻だということです」(世界1月号)
 近代文明のベースをなすグローバリズム。その本家本元ともいえる米国から「脱グローバル化」という方向が明確に出てきたのである。「今日という時代が近・現代の全過程を踏破して、その終局的な帰結を示すクライマックスに到達したという事実は疑いようがない」と渡辺京二は1990年に書いた。近代の極相は、もう我々の眼にも見えている。
 「近代の超越」をどう展望するのか。急がなければと思う今日この頃である。

 年末、仕事でヒマラヤ山脈についてリサーチしたさい、『ラダック〜懐かしい未来』という本を手に取る機会があった。ラダックはヒマラヤ山脈カラコルム山脈に挟まれた高地で、現在はその大部分がインドに属している。チベット系の人々が住むその地は、長く外国人の立ち入りが禁じられた秘境であり、奇跡的に伝統的な社会が存続してきた。
 著者のヘレナ・ノーバーグ・ホッジは、ここで人びとの屈託ない笑顔を見、信頼と深い思いやりにあふれる共同体に感銘を受けた。ラダックには、渡辺の代表作『逝きし世の面影』を彷彿とさせる桃源郷のような社会があったのだ。それが「開発」によって急激に解体し、現在まさに「逝きし世」になりつつある。
 「ラダックは、今日までほとんど完全な形で生きつづけてきた最後の自給経済社会のひとつとして、開発の全体の過程を観察できる、またとない場である。近代世界との衝突は、特に急激であった。だが今体験している変化は特異なものでもなんでもない。本質的に同じ過程が、世界の隅々まで影響をおよぼしている」。(P180)
 渡辺が『逝きし世の面影』を書いた問題意識は「われわれの近代の意味は、そのような(古い日本の―高世)文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろう」という点にあった。
 途上国を訪れ、「開発による破壊」を嘆く先進国の旅行者は多い。しかし、多くの人は、その「破壊」は止められない必然の流れで、仕方のないものとして受け入れる。これに対してヘレナは「「開発しかない」という、社会のほとんどの人たちが抱いている思い込みに疑問を呈して、「いや、ちがう道筋がある」ということをはっきり示さなければいけない」と決意し、この事態の深い分析に踏み込んだのだった。
 渡辺は『逝きし世の面影』を書いて、「果して近代は必要だったのか」と問うている。渡辺もまたヘレナと同じく、我々が辿った近代ではない「ちがう道筋」の可能性を示唆している。
 ヘレナの書いたこの本は、一つの「文明の実態とその解体の実相」を現在進行形で描き、近代化、西欧化、グローバル経済の本質を露わにしている。そして、それが先進国と言われる日本にも共通の問題であることを気づかせてくれる。渡辺京二のいう「近代の超越」を考える上できわめて興味深い記録であり、ここにその内容を紹介したい。

ラダックの「逝きし世」〜幸福感にあふれる伝統社会
 ラダックの人々は、標高3000m以上の高地に点在する小さな集落で生活している。作物を栽培できる期間は年間四か月ほどしかなく、栽培される作物は限られている。大麦が主食で、ヤギ、ロバ、馬、乳牛、ヤクなどの家畜からは、肉と乳が得られる。牽引用の家畜としては、在来の牛とヤクとを交配したゾーが重要である。標高4500mから5400mの氷河地帯の近くの広大な牧草地で放牧がおこなわれ、家畜の糞は、乾燥させて燃料に、乳は加工してバターやチーズにする。

1.仕事は歌とともに
 ラダックでは、高地の厳しい自然環境のなかでも、老若男女がそれぞれの役割をもち、歌を唄いながら楽しげに仕事をこなす情景がみられる。
「収穫は、もう一つの祝祭の時である。老若男女の刈り手が一列になり、鎌で刈り込みながら歌を歌う。夕方、人々が集まり、歌い飲み、そして踊る」(P33)
 「風選(脱穀の後に殻を飛ばす作業)の様子はとても優雅である。ゆったりとしたリズムで、穀粒を見事に空中にすくい上げる。穀物の殻は風に飛ばされ、中の実だけが地面に落ちてくる。ふたり一組の作業で、木製のフォークを持って向かい合い、口笛を吹いて風を招き、ときに歌う。
おお、純粋な風の女神よ、おお、美しい風の女神よ、殻を飛ばしておくれ……」(P34)
 「とても苛酷な気候と乏しい資源にもかかわらず、ラダックの人びとは単に生存するということ以上の暮らしを楽しんでいる」。「私たちが大型の機械に頼る作業の多くを、ラダックの人びとは家畜の力と、チームワークで行なっている。しかも、どの仕事にも歌がつきものである。
 ラモキョン、ラモキョン、ヤレキョン、ラモレ気楽にやろう、やろう気楽に」(P50-51)
 「ラダックの人たちはそれぞれの仕事を成し遂げるのに、ほんの簡単な道具だけを使い、とても多くの時間をかける。服にするための毛織物を作るには、手間ひまのかかる作業がともなう」。「にもかかわらず、ラダックの人たちは、あり余る時間のゆとりを持っている。彼らは穏やかなペースで働き、驚くほどの余暇の時間を享受している。」(P51)
 「収穫の時期、作業が長くつづくときでも、のんびりとしたペースで行なわれ、80歳の人でも小さな子どもでも参加し手伝うことができる。よく働くが、笑いと歌がともなったそれぞれのペースで働くのである。仕事と遊びとのあいだには、はっきりとした区別がない。」(P52)

 労働は苦役ではなく、大きな喜びであり楽しみだったのだ。
(つづく)