古代天皇と仏教―責めはわれ一人にあり

 先日、野暮用で神田神保町に行ったついでに、「農文協・農業書センター」に寄った。ここは農業を中心に人の生き方を考えさせるいい本が置いてある。ここで2冊、そのあと近くの古本屋をぶらついて1冊、計3冊購入。買ったはいいが、またツンドクになりそうだ。
 先日本を整理していたら、読んでない本があまりに多く、同じ本が2冊あったりして反省した。もう先が長くないからバリバリ読まないと・・・。

 で、その農文協の階段が展示場になっていて、「ハジチ」の写真展をやっていた。

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 ハジチ(針突)とは沖縄や奄美などに琉球王国の時代からあった、女性が手の甲に入れ墨を彫る文化だという。はじめて知った。

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 1899年、明治政府が入れ墨禁止令を施行したため、1990年代にハジチを施した女性とその文化は途絶えた。撮影は沖縄の写真家、山城博明氏で70年代から90年代前半まで撮った写真は貴重な史料でもある。2012年の写真集『琉球の記憶 針突』の新版が9月に出たのに合わせて展示会が開かれた。

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16日の朝日新聞夕刊に記事が載った

 この文化の発祥は、魔除け、部族団結のトーテム、成人女性になる通過儀礼など考えられるが、始まった時代も含め、よくわからないらしい。

 山城氏がハジチを施したオバアを訪ねて取材していくビデオ作品も上映されていたが、ハジチをする理由として、ハジチをしていないと、「ヤマト(日本本土)に連れていかれる」、「嫁に行けない」、「成仏できない」、「地獄で葦の根を掘らされる」などさまざまな答えが返ってきた。
 ハジチは墨を針で肌に刺しこむのでとても痛いそうだが、この痛さを我慢できるなら、嫁ぎ先でどんな辛いことにも耐えられると「説得」された人もいた。こうした理由はあとで付け加えられたのだろう。

 ハジチの模様にはそれぞれ意味があるらしいが、これもはっきりしない。地域ごと、島ごとにパターンが少しづつ違うという。

 アイヌの女性の口の周りの入れ墨、インドのナガランドのアディヴァシ族の女性の足の入れ墨(7月22日のブログhttps://takase.hatenablog.jp/entry/20200722)などを思い出す。入れ墨の文化は民族を越えて各地にあるようだ。

 昔、倭人は入れ墨をしていると『後漢書』や『魏志倭人伝』に登場することはよく知られている。
 「男子は大小無く、皆、黥面文身す」(『魏志倭人伝』)とは、男子は顔にも体にも入れ墨をしているという意味。もっと古く、縄文時代から入れ墨の風習があったことは土偶からも分かるという。
 入れ墨に込めたのは強さや美しさなのか、それとも祈りなのか。ハジチの写真を見ながら、散乱する連想を楽しんだ。
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 そもそもの日本の出発点は、どんな国づくりを目指したのか。それを学びたいと思っている。ダメな伝統なら直さないといけないし、古いものでいいものは復活させたい。
 そんな大雑把な問題意識でいいのかよ、というヤジがとんできそうだが、時代の転換点にはいろんな思考実験があっていいだろう。

 いま、古代の天皇は、かくも立派な政治倫理を持っていたのかと励まされる思いで読んでいる本がある。
 森本公誠『聖武天皇 責めはわれ一人にあり』(講談社)。

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 天皇のその倫理観のベースは大乗仏教の教えであることも知った。師事する岡野守也先生から勧められていた本で、古代の天皇と仏教について勉強する意欲をそそられている。

 今の天皇制は、重要な伝統を捨て去ったうえに成り立っている。明治維新は、神仏分離によって日本の伝統だった神仏儒習合(神道・仏教・儒教をミックスした宗教観)を破壊し、天皇神道とだけくっつけて特異な天皇制を作った。しかし、聖徳太子以降、皇室と仏教のかかわりは非常に深い

 皇室を制度的にも仏教に「取り込んだ」のは真言宗の祖、空海弘法大師で、平城、嵯峨の二人の上皇に灌頂(かんじょう、密教の入門儀式)を授けている。皇室をいわば「折伏」(しゃくぶく)したのである。

 意外に知られていないが、天皇家には泉涌寺 (せんにゅうじ、真言宗)という菩提寺があり、歴代の天皇の御陵が39陵ある。江戸時代までは葬儀は仏式でも執り行われてきたのだ。

 さて、著者の森本氏。聖武天皇が建立した東大寺の長老だから、こうした本を書くのは当然とも思えるが、経歴がとてもユニークだ。

 なんとイスラム史の研究で博士論文を書き、京大で教えたあと、2004年に東大寺別当(住職)・華厳宗管長、東大寺総合文化センター総長を歴任して現職に至っている

 東大寺聖武天皇についての書物は膨大にあるが、「歴史観の違いであったり、方法論の違いであったり、(略)かならずしも満足の得られるものがなく、たとえば聖武天皇の場合、天皇が次第に仏教への傾斜を深めていくにもかかわらず、研究者が果たして仏教思想なるものを意識しているのか、疑問に思ったりした」ため、みずからが史料に当たって理解を深めようと思ったという。
 「研究者のなかでも、部分的にはきわめて詳細な成果を上げられながら、大きな流れの把握ではいかがなものかと感じられる場合もあった」と森本氏は言うが、専門家が広い視野を欠いてトンチンカンな結論にいたることは珍しくない。

 そこで森本氏は、みずから愚直に仏典、史料を読み込んで、「世界史的な時代背景や人知を超えた自然の驚異のなかで、民を治める最高主権者として苦悩し、ときにはその苦悩のあまり心身の極限に追い詰められながらも、人間としての平等観や救済観に目覚め、それを現実の政治に活かそうとした一人の天皇の姿」を描いたのがこの本だ。結果、説得力も独創性もある聖武天皇論になっている。

 本題の聖武天皇だが、東大寺の大仏を、そして日本全国に国分寺国分尼寺を建立したことで知られるが、通説では評判が悪いという。
 ひんぱんに遷都したことで、聖武天皇はノイローゼだった、あるいはひ弱で優柔不断だったなどとも言われてきた。

 また、戦後、皇国史観の呪縛から解放された日本史学会はマルクス主義史観が圧倒し、一般に天皇の治績を否定的に論じることが流行った。

 《たとえば中学生の修学旅行を引率してきた教師が大仏殿に来て、「先生は入らないが君たちは200万人もの人民を酷使してつくった大仏をよく見て来い」といって、出口で待つ》といった光景もあったという。(森本P22)

 うちの娘が昔読んだマンガの日本史でも、大仏建立は人民を苦しめる苦役として描かれている。

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『漫画で学ぶ日本の歴史』(成美堂)

 私もかつては、こうした硬直した歴史観を持っていたことを白状するが、これでは真にリアルな歴史には迫れないだろう。

 きょうは序論として、本の副題にある「責めは予(われ)一人に在り」と述べた詔(みことのり、天皇の命令)を紹介したい。

 天平4年(732年)以来、旱魃(かんばつ)が続き、飢餓は人々の心の荒廃をもたらし各地の牢屋は犯罪人でいっぱいになった。
 聖武天皇は、こうした事態を受けて、天平6年7月、心情を吐露し、大赦(恩赦)を与えるとの詔を出した。(以下は森本氏による現代風読み下し)

 「朕(ちん)が民を治めるようになってから十年を経たが、自分の徳化が行き届かず、罪を犯す者が牢獄にあふれている。万民が幸福に暮らせるよう寝ても覚めても心遣いをしているが、このところ天災で穀物が不作であるとか、地震がしばしば起こるのは、朕の政治が不明なためで、多くの民を罪に落とすことになった。しかしながら、その責任は自分一人にあり、諸々の庶民の与(あずか)るところではない。そこで寛大な政治を行い、人々の生を全(まっと)うさせたい。よって犯した罪を赦し、自力で更生の道を歩むことを許す。天下に大赦す。ただし、律の規定にある八つの重罪犯、殺意を伴った殺人犯、殺人を企て実行に及んだ犯罪者、特別の勅(天皇の命令)にもとづく長期拘禁者、山賊ら集団による強盗犯、受託収賄せる官人(役人)、物品管理責任者による当該物品横領者、死没と詐称せる生存者、良民を略取し奴婢に貶(おとし)めた誘拐犯、強盗犯・窃盗犯、大赦対象外の犯罪者らはいずれもこの限りにあらず」
 

 どうだろうか。
 天皇なんてただのお飾りで、誰かに政治は任せて、毎日うまいもの食ってキレイどころと遊んでいたんじゃないのか。私もそんなイメージを持っていたのだが、これを読んで、ちょっと感動してしまった。

    旱魃地震日蝕などの天変地異と君主の政治を結びつける災異思想は、今の我々から見れば「迷信」にすぎないが、感じ入ったのは、天皇の民を思う気持ちと責任感である。
 本当にこれが、1300年も前に日本のトップが語った言葉なのか、と時を越えてじーんと心に迫ってきたのだった。
(つづく)