関東大震災の虐殺100年によせて2

 先日、千葉県船橋市の行田公園に行ってきた。

 ここはもと海軍の無線基地(海軍無線電信所船橋送信所)があったところで、戦後米軍に接収され、1966年に返還されて公園になった。この一画に日本近代史に重要な役割を果してきた無線塔の記念碑がある。

船橋送信所の無線塔記念碑。(筆者撮影)

碑文には「関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた」とあり、朝鮮人関連の記述はない。

ニイタカヤマノボレ一二〇八」

 対米開戦を控えた1941年12月2日、連合艦隊司令部がハワイに密かに接近中の機動部隊に対し「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(12月8日真珠湾を攻撃せよ)を打電したことで知られるが、関東大震災直後の朝鮮人虐殺に決定的と言える影響を与えた電文を送信したのもここだった

 9月1日の地震の2日後の3日午前8時に警察を所管した内務省警保局長から「鮮人ノ行動ニ対シテハ厳密ナル取締」を求める電文が発せられていたのだ。内務省警保局長といえば現在の警察庁長官にあたる。

 朝鮮人虐殺については朝鮮人来襲」を伝えるメディア状況が大いに与っている。

 まず地震で起きた大火災により、東京にあった新聞社16社のうち、『東京日日新聞』、『報知新聞社』、『都新聞社』を以外はすべて社屋が焼失。完全に残った3社も手刷りや謄写版などで号外を出す以外、都内での新聞発行はできなかった。整然と活字を並べて入れたケースが一斉に倒れて、活字が床に散乱したうえ、電気が止まって印刷機は動かなくなった。1枚2頁の報知新聞が5日、東京日日が6日に発行されるが、市街は壊滅していて配達も困難だった。少なくとも4日までは東京で新聞は読めなかった。

 後述するように、地方紙が流言を競うように書いて、虐殺を地方にまで広げる役割を果すのだが、東京近辺については、人々が確実な情報を得る道は完全に断たれていた。電信電話は壊滅し、警察をふくめ各官庁間の連絡も途絶した。

 最初は流言はくちコミで広がった。9月1日午後4時には王子警察署から「鮮人放火」、翌2日に四谷署から「不逞鮮人ら爆弾をもって放火」の流言が報告されているという。

 映画『福田村事件』では、流言を最初に広めたのが公安警察だと示唆するシーンが出て来るが、流言の出元については研究者のあいだでも決着がついていないようだ。(これについては次回触れたい)

 緊急勅令で戒厳令が布告されたのは、2日午後6時。2日午後に東京都内で広まった「横浜方面から東京に朝鮮人来襲」との情報が、自警団の武装化を促したとされる。

 ところが内務省は3日、各新聞社に対し、朝鮮人に関する記事は載せるな、載せたら発行禁止にするぞと以下のように警告していた。意外に思われるかもしれないが、この時点ですでに内務省は「朝鮮人来襲」などのくちコミ情報が根拠のない流言だと判断していたのだ。

朝鮮人ノ妄動ニ関スル風説ハ虚伝ニ亙(わた)ル事極メテ多ク、非常ノ災害ニ依リ人心昂奮ノ際、如斯(かくのごとく)虚説ノ伝播ハ徒(いたず)ラニ社会不安ヲ増大スルモノナルヲ以テ、朝鮮人ニ関スル記事ハ特ニ慎重ニ御配慮ノ上一切掲載セサル様御配慮相煩度(あいわずらわしたく)、今後如上ノ記事アルニ於テハ発売頒布ヲ禁止セラルル趣(おもむき)ニ候条(そうろうじょう)御注意相成度(あいなりたし)」

 ところがこの要請にもかかわらず、被災しなかった地方の新聞で翌3日以降、「朝鮮人来襲」の記事が数多く掲載されることになる。

「鮮人大暴動 食料不足を口実に盛んに掠奪」(3日付「河北新報」)

「歩兵と不逞鮮人と 戦斗を交ゆ」(4日付「福島民友新聞」)など

 こうした「流言報道」が止まるのは、ようやく9月7日以降になってのことだった。

 『大阪朝日新聞』は最速の報道体制だったが、3日の「天声人語」で「あらゆる通信交通機関が途絶して辛くも無線電信に依る通信だけ」と書くほど情報収集は困難だった。大阪朝日の4日付に「武装軍隊の厳戒―不逞団蜂起の流説に備へて」の記事があり、「場合によつて斬り捨て或は銃剣で突き刺すべく厳戒中であると」(名古屋電話)と結ばれている。それに続いて「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」とある。

 この元ネタが、先にあげた3日の船橋送信所から発信された電文だった。

 その電文は―

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取り締を加えられたし」と指示している。

テレ朝ニュースより

 震災直後は船橋送信所と東京との有線・無線いずれの通信も途絶し、2日以降、送信所から東京に通信文を取りに行き、また東京から騎馬で通信文を運んだ。内務省警保局長後藤文夫から呉鎮守府、地方長官宛のこの電報は、2日午後に伝騎に持たせて送信所に届けられたものだった。その時点で内務省は、朝鮮人に関する流言を事実と断定したことを示している。これを公式の電報として各地方に発信したため、朝鮮人による暴動説は、現実の大事件として全国に一斉に広まった。かくして東京の新聞が壊滅する一方で、直接の震災取材ができない地方の新聞は、治安当局の電報にもとづき、流言を事実として掲載した。

 船橋送信所からの3日のこの無線伝達で自警団が作られたところも多かったという。映画『福田村事件』でも、この内務省からの指示によって武装した自警団が組織される設定になっている。

 東京周辺で唯一大きな被害がなく通信が可能な公的施設はここ船橋送信所だけだった。最初の発信記録は2日午後8時28分に船橋送信所から横浜鎮守府長官発、海軍大臣宛てに出された「不逞鮮人ノ放火」だったという。4日午後20分には「船橋送信所襲撃ノ虞(おそれ)アリ、至急救援頼ム」と危機感いっぱいに打電している。これは流言によって船橋送信所の大森所長が恐怖感にかられて独断で発した電文だったが、全国各地の無線電信所で受信され、東京とその付近一帯が朝鮮人暴徒によって大混乱をきたしていると判断された。

「シキウキウエンタノム」の電文(関東大震災政府陸海軍関係史料Ⅲ「海軍関係史料」P67)

 情報伝達手段が大混乱にある中、船橋送信所が発する無線通信の果たした役割は大きく、北は『樺太夕刊』から南は『台湾日日新聞』まで各地の新聞がさかんに「鮮人」報道を書いて恐怖をあおるにいたる。

(以上の記述では、佐藤卓己『流言のメディア史』第2章、吉村昭関東大震災』第9~11章を参照、引用した)

takase.hatenablog.jp


 朝鮮人虐殺は自然発生的な流言だけで起きたのではなく、警察が公のルートで流言を広め警戒せよと指示したことが決定的な役割を果したと思われる

 不思議なのは、2日に政府が新聞に対して朝鮮人に関する記事の自粛を求める一方で、同時期に内務省が流言を信じて船橋送信所から朝鮮人に対する警戒を指示していることだ。政府内で対応が分かれているのはなぜか、分からない。どなたかご存じなら教えていただきたい。

 小池百合子東京都知事は、虐殺犠牲者を悼む式典への追悼文を2017年以降、送っておらず、「甚大な災害と、それに続く様々な事情で亡くなられた全ての方々に対し、哀悼の意を表している」と言う。しかし、震災で亡くなった人と、震災を生き延びて逃れてきたのに殺害された人を同列にできるわけがない

 政府はいまだに朝鮮人虐殺について「記録がない」(松野官房長官)とシラを切り反省もしていない。事実を認めることがなぜできないのか。

 これは日本の近代史でもっとも恥ずべき事件であり、さらに究明されるべきことは多い。
(つづく)