国立(くにたち)と満州の都市計画

 知らなかった・・・。
 手や足をすりむいたら、赤チンなどで消毒して傷口を乾かしておく⇨もう、このやり方は時代遅れで、推奨されないのだそうだ。 

 10日ほど前、国立の駅前で、自転車で転んで右ひじをひどくすりむいた。再建された旧駅舎にコロナ予防のアルコール消毒液が置いてあったので、それで傷を洗ってそのままにしていた。ところが、傷は治らず、膿んでしまった。今も痛いし膿が出て熱をもったままだ。

 どうしたら傷が早く治るのか、ネットで調べた。すると、最新のやり方は、傷を水できれいに洗って、消毒しない。そして傷口に出てくる黄色いジュクジュクした体液が乾かないように覆ってやるのだという。
 そのわけは、まず赤チンやオキシフルなど消毒液は細胞を破壊して傷を深くする。ジュクジュクの中には40種類以上の「細胞成長因子」の他、頑張って傷を治している細胞があり、それが治りを早くするのだという。ガーゼなどをあてるとジュクジュクを吸い取って傷口を乾燥させてしまうので、ハイドロコロイド被覆材の絆創膏を貼るとよいという。

 ドラッグストアに行くと、たしかに普通の救急絆創膏の他に、「ハイドコロイド素材」の絆創膏が何種類も売っていた。箱の裏の使用法には「キズに薬はつけない」、「キズが乾く前に貼る」と書いてある。 

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 むむ、時代はこんなふうになっていたのか。おれは遅れてるな。

 おもしろかったのは、東京・日野市医師会のホームページ。

 《そもそも傷を消毒して乾燥させるという方法は、19世紀の偉大で神格的な細菌学者パスツールが、「傷の化膿を防ぐためには消毒と乾燥で細菌の侵入を防ぐべき」という考えを提唱したことから始まり、20世紀後半までその真偽は誰にも検証されず、大学医学部にケガの治療法を研究する專門科も無いまま、儀式的に傷の消毒が行われてきた経緯があります。http://hino-med.or.jp/medicalinfo8.html

 ええっ!こんな基本的なことが、「誰にも検証されず」「儀式的に」やられてきたのか!?
 世の中の常識を疑うことは、どの分野でも大事なんだな。

 もっとも、私のキズはもう膿んでしまったので、最新式は使えない。買ってきた「ハイドコロイド素材」の絆創膏は、こんどすりむいたときの楽しみにとっておこう。
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 あのノスタルジックな原宿の旧駅舎の解体工事がきょうからはじまった。
 

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 「原宿駅の旧駅舎は1924年に建てられ、今年3月まで利用されていました。耐火性が不十分なため東京オリンピックパラリンピックの後に解体されることになっていましたが、大会が延期されたため、解体工事は25日から始まりました」(ANNニュース)

 先日紹介したように国立(くにたち)の旧駅舎(国立市指定有形文化財)は、原宿駅に2年遅れて1926年の竣工だ。雑木林が広がる武蔵野に、東京商科大学(現一橋大学)の移転を機に、箱根土地(現プリンスホテル)が造ろうとした「大学町」の中心に位置づけられたのが国立駅だった。

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再建された国立駅の旧駅舎(自転車でころんでアルコール消毒させてもらいました)

 この国立の町づくりが、満州のそれと関係しているという話を聞いた。どういうことなのか。 

 『わが町国立』という本には、国立の「整然たる放射道路の構想は、ヨーロッパのある文化都市と、満州の首都の駅前設計からヒントを得たものだという」とある。
  国立は満州からヒントをえたというのだ。

 ところが『国立市史』では「満州国の誕生は昭和7年、首都『新京』の建設は昭和8年からで、くにたち大学町の『設計は、後に満州国新京の都市計画のモデルケースとなった』(『堤康次郎伝』)とあるのが正確だろう」となっている。
 こちらは逆に、国立が満州のモデルになったという。

 なるほど、国立の駅前と満州の首都、新京(現長春)のそれは、規模は別にして、よく似ている。

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くにたち大学町の都市計画(昭和2年ごろ)

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長春満鉄付属地の中心部『満州国の首都計画』より

 問題は、満州が国立のモデルか、逆に国立が満州のモデルか、そして影響関係があるのなら、それはなぜかだ。日本の近代化の過程で、植民地を含む町づくりがどう進んだのかを見るのはおもしろそうだ。

 まず、どっちが先かという点だが、これは『わがまち国立』に軍配が上がりそうだ。

 満州国の建国は1932年(昭和7年)、国立町の建設は1925年(大正15年)なので、たしかに国立町の方が古いのだが、実は、満州と呼ばれた中国東北部の都市建設は建国のはるか前から進められていた。

 その都市建設を進めたのは「満鉄」、南満州鉄道株式会社だった。
 南満洲鉄道とは、日露戦争終結後、1905年(明治38年)に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道南満州支線(長春・旅順間鉄道)、また、支線を含む鉄道事業および付属事業を経営する目的で、1906年明治39年)に設立された特殊会社、南満洲鉄道株式会社を指す。(wikipedia

 満鉄は、軍が中心となって作った半官半民の国策会社で、日本はこれを足掛かりに事実上の植民地経営を始めていくのである。

 満鉄の業務内容を定めた外務、大蔵、逓信の三大臣の命令書によると、鉄道の便益のためとして、「炭鉱採掘、水運業、倉庫業、鉄道付属地における土地及び家屋の経営、その他の許可を受けたる営業」(4条)、付帯事業として「土木、教育、衛生」(5条)、「鉄道及び付帯事業の用地内の居住民に対し手数料を徴収しその他の必要なる費用の負担を求めることが出来る」(6条)が挙げられている。

 つまり、満鉄は、単なる鉄道会社ではなく、一つの政府のような役割も果たした。鉄道周辺の地域を「鉄道を守るために必要な土地」であるとして支配し、沿線都市の都市計画や都市経営まで行っていく。これこそが、満州における日本の植民地経営の特徴だった。

 満鉄は早くも営業開始の3ヵ月後の1907年7月、大連、遼陽、鉄嶺の付属地で道路工事を開始。長春奉天では実測測量に着手している。(以上、長内敏之『「くにたち大学町」の誕生』を参照)
 満州国が建国されるずっと前に、中国東北部の主要都市では「満鉄」による都市建設が進んでいたのである。

 その「満鉄」の初代総裁となったのが後藤新平。彼はのちに1923年の関東大震災後の内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市計画に辣腕を振るい、学園都市くにたちの町づくりに関与していくのである。
(つづく)
*断続的に連載します。