「焼き場に立つ少年」が訴えるもの

 きょう、内閣府今年第2四半期(4~6月)の国内総生産GDP)速報値を発表した。年率換算で27.8%減少という衝撃的な数字だった。リーマン・ショック後の09年1~3月期の年率17.8%減を超える戦後最大の落ち込みとなった。

 米国は32.9%減で、統計の記録を開始した1947年以来最大の減少率だった。

 一方、中国はプラス成長を達成し一人勝ち。ついに第2四半期のGDPで米国を抜いた。年間で米国を上回るのももうすぐだろう。
 コロナ禍は、世界のパワーバランスを大きく変えるかもしれない。

 そんな勢いを増す中国にどう向き合うか。コラム「高世仁のニュース・パンフォーカス」6回目を公開しましたので、関心のある方はどうぞお読みください。 

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 この夏の戦争特番の中で印象に残った一つに、8月8日の ETV特集「“焼き場に立つ少年”をさがして」がある。

 《原爆投下後の長崎を訪れた米軍カメラマン、ジョー・オダネルが撮影した「焼き場に立つ少年」。近年ローマ教皇によって取り上げられたことで世界から注目を集める写真だ。しかし撮影から75年経つにも関わらずその撮影日時や場所は謎に包まれたまま。番組では米軍が戦後九州で撮影した約4千枚の写真を主な手がかりに写真を多角的に分析。原爆孤児らの証言をひもときながら「焼き場に立つ少年」が生きたはずの戦後の日々を見つめる》(番宣より)

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 死んだ弟をおぶって焼き場にきた少年だ。
 彼が弟の遺骸をもってきたということは、おそらく家族を亡くして孤児になったのだろう。

 押し寄せる悲しみを全身に力を入れて何とか耐えているような姿。そして何という表情だろうか!

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 少年は何を思っていたのか。この後、少年はどうなったのか。感情をゆさぶられながら、つぎつぎに問いが湧いてくる。

 番組では、長崎原爆で家族を失い孤児になった人が何人か、証言者として登場した。彼らは、この写真を見て、当時の自分たちを思い出して涙を流していた。

 私は、つらいだろうな、不安だろうなと状況を懸命に想像しながら少年の思いに迫ろうとするが、孤児体験者と同じようには写真に入り込めない。
 しかし、少年の気持ちを想像することで、自分の戦争の記憶のストックとでもいえるものに積み重ねられていくものがあるのを感じる。それが、戦争にかぎらず、映像やインタビュー、文書などの記録・表現を後世の人に伝えていくことの意味の一つではないかと思う。 

 この写真を撮ったのは、第5海兵師団カメラマンジョー・オダネルで、『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』(小学館)という本が1995年に出ている。

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1945年9月2日に佐世保に上陸した第5海兵師団のカメラマン、オダネル軍曹。上陸24時間で佐世保の海岸に造られた見渡す限りのテント村にて。一つのテントに10人を収容する。「いったい何人が占領軍として上陸したのか、私には見当がつかなかった」(オダネル)。

 オダネルは、高校を卒業してまもなく、19歳のとき、真珠湾を奇襲した日本に敵愾心を燃やし、海兵隊に志願する。カメラマンとして養成されたオダネルは終戦直後に日本に上陸、7ヵ月にわたり各地を撮影するが、「苦痛に耐えて生きようと懸命な被災者たちと出会い、無残な瓦礫と化した被爆地にレンズを向けていくうちに、それまで敵としてとらえていた日本人のイメージがぐらぐらとくずれていくのを感じた」という。

 アメリカに戻ったオダネルは、悲惨な記憶を封印するように、私用カメラで撮ったネがをトランクに入れて鍵をかけた。意を決してトランクを開けたのは1990年のことだった。写真を公開し、日本で写真展が開かれたのが1992年。彼の写真が知られるようになったのはここからである。

 少年の写真について、オダネルがこう書いている。

 《長崎ではまだ次から次へと死体を運ぶ荷車が焼き場に向かっていた。死体が荷車に無造作に放り投げられ、側面から腕や足がだらりとぶら下がっている光景に私はたびたびぶつかった。人々の表情は暗い。

 焼き場となっていた川岸には、浅い穴が掘られ、水がひたひたと寄せており、灰や机片や石灰がちらばっている。燃え残りの木片は風を受けると赤々と輝き、あたりにはまだぬくもりがただよう。白い大きなマスクをつけた係員は荷車から手を足をつかんで遺体を下ろすと、そのまま勢いをつけて強烈な火の中に投げ入れた。はげしく炎を上げて燃えつきる。それでお終いだ。燃え上がる遺体の発する強烈な熱に私はたじろいで後ずさりした。荷車を引いてきた人は台の上の体を投げ終えると帰っていった。だれも灰を持ち去ろうとするものはいない。残るのは、悲惨な死の生み出した一瞬の熱と耐え難い臭気だけだった。

 焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。

 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。わき上がる熱風にも動じない。係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。私は彼から目をそらすことができなかった。少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で彼は弟を見送ったのだ。

 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?》(P96)

 ページ下の小さなキャプションには

 《この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた》とある。

 今回番組ではオダネルが日本で撮った大量の写真をチェックして謎解きをしていく。

 オダネルはあくまで軍事写真を撮るために派遣され、日本が占領政策を守っているか、軍事施設や武器などが確実に破壊されているかを確認するなどの任務を持っていた。
 ところが、次第に子どもたちにカメラを向けるようになり、敵味方を超えた人間性に目覚めていったとみられる。

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子どもを撮った写真

 番組の最後は、原爆投下を正当化するかという質問にジョー・オダネルが答える肉声だった。

アメリカ人として原爆投下直後に街を歩いてどう思ったか?)

オダネル】(原爆は)間違いだと思った。

「原爆がアメリカ人や日本人の多くの命を救った」と言う人々に言いたい事は?)

オダネル】(原爆は)何も救わなかった。罪のない人々を殺しただけ。私の考えに同意しない人がいるのはわかっている。でも、我々はおばあさんやおじいさん、子供を殺した。


(無意味な虐殺だったと?)

【オダネル】そうだ。

 アメリカの軍人であるオダネルが、原爆は「何も救わなかった」と答えているのである。勇気ある発言であり、誰も否定できない説得力がある。

 あの焼き場に立つ少年を撮影したことも、彼の考え方に大きな変化をもたらしただろう。今も少年は写真の中から私たちに多くのことを訴えかけている。

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 1995年夏、アメリカのスミソニアン航空宇宙博物館が計画した「エノラゲイ展」は、広島・長崎の被爆遺品資料そしてオダネルの写真も展示する計画だった。ところが、退役軍人を中心に市民から猛烈な反発が起き、エノラ・ゲイ以外の展示はキャンセル、館長は辞任に追い込まれた。
 アメリカで起きた最初の「原爆論争」だったが、最近では、とくに若い人のあいだで原爆投下は間違いだったと考える人が増えているという。時代は少しずつ変わってきているようだ。

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 なお、NHK長崎は去年夏にも同名の番組を作っている。

 その時は、少年や撮影場所を特定したのだが、のちに取材に協力した人たちから「不適切報道」などと抗議を受けている。かなり強引なつくりをしたようだ。少年はこの人だと特定した人物は別人と判明したという。
https://www.vidro.gr.jp/wp-content/uploads/2019/08/c06351757f3044e5ff1ed8f8da500642.pdf
https://hodanren.doc-net.or.jp/news/teigen/190908_yosei_nhk.html
 今回はもっぱら、オダネルの写真からの謎解きと、孤児になった子どもたちの境遇、思いを考えるつくりになっている。批判を踏まえてか、撮影された場所も特定していない。