中国残留孤児の訪日調査から40年

 この時期、日陰にうつむいて咲くのがヘレボラス。

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 花のように見える部分は「がく」なのだそうだ。花の時期が長いのは、そのせいだろうか。

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 先々週の日曜日2月21日、東京・三鷹市公会堂で報道写真家の山本宗補(むねすけ)さんの講演を聞いた。

 NPO法人「中国帰国者の会」主催の山本さん撮影の写真展が19日から3日間開かれ、最終日のその日は山本さんの「戦後はまだ・・・刻まれた加害と被害の記憶〜戦争も原子力発電も国策。繰り返される棄民を考える」と題する講演があった。

  山本さんといえば、筋金入りのという形容詞がぴったりのリベラル派ジャーナリストで、国家権力に踏みつぶされる民衆の側に立って写真を撮り続けている。

 講演のキーワードは「棄民」で、原発事故、ハンセン病の隔離政策、アイヌへの差別、日本兵によるアジア民衆への暴力、シベリア抑留と彼の取材は多岐にわたる。

 

  講演では冒頭、まもなく10年になる3.11の原発事故を語った。

 「フリーランスの取材者は立ち入り禁止となった警戒区域に入り、大本営発表に欠けているものを補う報道をした」。

 このブログでも何度か書いたが、テレビ局や新聞社は、記者をイチエフ(福島第一原発)から30キロ、40キロ外に引き離した。
 大熊町では避難遅れで双葉病院の患者ら50人が死亡した。

 「棄民されるがごとく、重病者は見捨てられるように亡くなっていった事実、警戒区域は生き物の生き地獄となった事実は、テレビ新聞報道で大々的に報道されたか?」と山本さん。

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第二会場。開始時刻ちょうどに着いた私はメイン会場には入れなかった。残留孤児の家族も多かった。

 満員の盛況で、コロナ対策で入場をしぼったこともあってメインの会場の63人枠は埋まり、私は第二会場で話を聞いた。
 写真展を企画したのはNPO法人「中国帰国者の会」で、講演は中国語の通訳が入った。写真展会場では中国語が飛び交っていた。 

 

 山本さんが戦争体験者の聞き取りを始めたのは2005年の夏からで、沖縄県西表島など八重山諸島を舞台にした「戦争マラリア」の取材に取り組んだのが最初だったという。  

 戦争に関して興味深かったのは、山本さんの故郷の長野県にまつわる話。1932年以降、国策による「満蒙開拓団」の募集があり、約27万人が移住したが、うち約8万人が死亡という悲劇的な結果に終わった。

 送出県のダントツの一位が長野県で37,859人。うちおよそ1万5千人が亡くなったという。(なお二番目に多い送出県は私の故郷の山形県
 「開拓団は関東軍を守る配置だった」とは『長野県満州開拓史』の記述だという。

 開拓団から現地召集された男性が生きのびて復員した一方で、遺された女性、子ども、高齢者が病気、自決などで命を落とす場合も多かったという。第九次万金山開拓団高社郷(長野県下高井郡)では、死者571人中なんと514人が集団自決だったという。なんとも痛ましい。

 

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浪江町南相馬市の境界で「希望の牧場・ふくしま」を営む畜産農家の吉沢正巳さん。両親は新潟県から満蒙開拓団満州へ。父はソ連軍から逃げきれないと、母と3人の幼子を自らの手にかけた。原発事故被災地には開拓団あがりの入植者が多い

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写真展示会場では中国語が飛び交っていた

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政府が「残留婦人」と「残留孤児」を差別し、13歳以上で中国に残った人は判断能力があり自分の意志で中国人と結婚したと援護しない姿勢を示したのに対し、鈴木則子さん(故人)は納得できず国家賠償を求めた。娘さんが母の写真の前で、国は戦争の犠牲者にもっとやさしくしてほしいと訴える。

 講演後、山本さんに挨拶して、あらためて取材対象がすごく広いのに驚きます、原発も、被爆者も、戦時性暴力もあって、というと「まあ、30年もやってきましたからね。でも僕にとっては東南アジアが出発点でしたね」とのこと。1985年からのフィリピン、88年以降のビルマと取材場所は私とダブっている。

 山本さんは、20代半ば、自己嫌悪から、とにかく住む場所を変えるしかないと目的なくアメリカに逃げ出したという。コミュニティ・カレッジ(公立の2年制大学)に通うために消去法で選んだのが写真のコースだったそうだ。
 帰国後は海外の観光写真の仕事をしていたが、知り合いの週刊誌編集者からフィリピンのネグロス島の飢餓がひどいと聞き、1985年9月にフィリピンに旅立ったのが社会的テーマに接した最初だったという。
 山本さんも「なりゆき」の人生なんだな、俺もだけど、と妙なところに感心した。

 数年前、東京を引き払って、故郷の長野県北佐久郡御代田町に戻って暮しているが、いまも講演や写真展で日本中を飛び回っている。私と同年の山本さんの活動には励まされる。

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 3月2日の朝のNHKおはよう日本」で、1981年の中国残留孤児の訪日調査開始から40年になることが報じられていた。その対象になったのが2,818人で、2,557人が永住帰国した。しかし、その中で身元が判明したのは1284人とすぎない。

 身元が分からぬまま永住帰国した河本琴さん(推定78歳)は、混乱のなか3歳のころ中国人に引き取られた。義母はいい人だったが、家はとても貧しかったという。「日本がある東の方角を見て時々泣いていました」。

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 琴さんの身元は分かっていない。

 「他の人は両親、家族がいるが、私には何もない。とても苦しかった。死ぬ前に肉親を見つけ出せるのか。自分の身元を知ることができるのか」と河本さんは心細げに話す。

 時間がたちすぎて、今では身元に関する情報はほとんど集まらないという。

 コロナ禍で残留孤児同士の交流も止まり、一人手押し車で公園を歩く後ろ姿に老いの影と寂しさが漂っていた。 

 琴さんの家族もあるいは満蒙開拓団の一員で犠牲になり、そのために身元が分からないのかもしれない。残留孤児、残留婦人をはじめ、国策で被害を被った人たちに日本は冷たすぎる。