樺太残留日本人の帰国支援に区切り

takase222013-02-02

もう2月だ。はやいな。
今朝の朝日新聞の「ひと」欄に小川岟一(よういち)さんが出ていた。
タイトルは《サハリン残留日本人の帰国支援に区切りをつける》。
樺太に残された日本人の一時帰国、永住帰国を応援してきた人で、私も取材で非常にお世話になった。
23年間で、残留日本人330人を永住帰国、のべ3000人を一時帰国させ、会を閉じて活動を若い世代に託すという。ほんとうに長いこと、ごくろうさまでした。

20数年前、私はいわゆる「先の大戦」(大東亜戦争)の後始末とアジアの反政府ゲリラと環境問題の三つを自分のテーマにしていて、樺太には、大戦後に残された朝鮮人と日本人、北方領土問題などの取材で通っていた。
樺太には、半島から炭鉱に出稼ぎに来ていた朝鮮人が多かった。敗戦で、日本人は本土に返されたが、ソ連は技術者・労働者として確保するために朝鮮人をとどめおいたのだった。
残留朝鮮人を取材した私は、当時のテレ朝「ニュースステーション」で番組を放送する一方で、その映像素材を韓国のあるプロダクションに無料で提供した。それは長時間のドキュメンタリーに編集され放送された。
まだ、韓国とソ連に国交がなく、韓国人による取材は難しかった。樺太にたくさんの同胞がいることをその番組ではじめて知った人も多く、大きな反響を呼んだという。大韓赤十字がすぐ動き出し、のちに韓国への永住帰国へとつながる嚆矢になった。
そのあとしばらくしてから樺太に行くと、朝鮮人のおばさんたちに囲まれて、「よくやってくれたね。あんたのおかげで韓国の親戚とも連絡がついて、近いうち故郷にも行かれそうたよ。ありがとうね」と感謝された。はじめて、自分の仕事で世の中が動くことの醍醐味を知った瞬間だった。
樺太取材の思い出についてはhttp://d.hatena.ne.jp/takase22/20100508

日本人のなかにも、敗戦の混乱のなか、さまざまな事情で、帰還船に乗れずに現地にとどまった人たちがいた。
ソ連の圧政のもと、望郷の念を抱きながら暮らしてきた日本人たちに手を差し伸べようと、小川さんたちが手弁当で「日本サハリン同胞交流協会」を立ち上げた。
まだソ連時代で、日本人たちが横の連絡を取ることも憚られたため、樺太に日本人が何人いるのかもわからない。現地の日本人が、調査のため各地を訪ねるのについて行ったこともあった。

小川さんたちの活動について毎日新聞の明珍美紀記者が書いているので紹介したい。
明珍とは、一度聞いたら忘れられない珍しい姓で、以前から記事で名前は知っていたが、初めて会ったのは、長井さんがミャンマーで殺された直後。新聞労連戦場ジャーナリストについてのシンポに呼ばれたとき、役員をしていた明珍さんと名刺交換した。美人記者である。よけいなことだが。
いま、樺太、サハリンといっても知らない若者も多いなか、ぜひ関心を持ってもらいたい。

《敗戦後、ロシア・サハリン(樺太)に残された日本人の帰国事業が一つの区切りを迎える。事業を担ってきたNPO法人「日本サハリン同胞交流協会」(東京)が、役員の高齢化などを理由に3月、活動を終えるためだ。だが、永住帰国者が直面している2世、3世の就労、教育問題などは解決しておらず、国の手厚い支援が必要だ。
 ◇帰国者に手厚い支援策を
 「日本はどこへ行ってもハラショー」。東京の羽田空港の出発ロビー。昨年9月にあった交流協会による最後の集団一時帰国事業(第44次)で、最高齢の斉藤ミヨさん(85)は目頭を押さえた。「ハラショー」はロシア語で「素晴らしい」の意味だ。付き添いを含めた一行45人は各地に住む親類や知人と会い、東京見物をしたり、温泉地に足を延ばしたり。それぞれ母国の風景を胸に焼き付けて北海道の稚内から船で戻って行った。
 ◇89年に会結成し国費負担を実現
 サハリン残留日本人の帰国運動は、会長の小川岟一(よういち)さん(81)や副会長の笹原茂さん(74)ら旧樺太出身者らが89年末に「樺太同胞一時帰国促進の会」(交流協会の前身)を結成して始まった。それまで交流ツアーなどでサハリンを訪れ、相当数の日本人が住んでいることを確認していた。
 「里帰りを実現させたい」と小川さんは肉親捜しや煩雑な書類手続きを一手に引き受けた。国に働きかけて中国残留孤児と同じく、往復旅費は国費負担(後に滞在費も)となった。全国から支援のカンパが寄せられ、集団一時帰国事業は90年5月にスタートし、第1陣12人が祖国の土を踏んだ。翌月下旬から、国による初の現地調査も実施された。それを機に名乗り出た日本人は400人を超えた。
 私は駆け出し時代に第1陣を取材してサハリンの問題と出合った。そのとき気になったのは、里帰りした12人のうち9人が女性だったことだ。
 旧ソ連軍の侵攻で1945年8月15日の終戦後も続いた死闘。ようやく戦争が終わってもすぐに引き揚げとはならなかった。「朝鮮やロシアの人と結婚しなければ自分の家族が食べていけない。そんな事情があったからサハリンに残った人の大半は女性だった」。帰国者の一人はこう打ち明けた。
 サハリンには日本に強制連行され、戦後置き去りになった韓国・朝鮮人が4万人以上いたといわれる。日本政府の支出による韓国への集団一時帰国が始まったのは89年だった。国による「棄民」の歴史が残る島に、望郷の念を募らせる日本の女性たちが数多くいたことに衝撃を受けた。
 ◇2、3世の就労や教育問題が深刻
 交流協会ではその後、国の委託を受けて、サハリンからシベリアを経てカザフスタンなど旧ソ連各地に送られた人々を含めた一時帰国、永住帰国の支援に着手した。01年からは中国帰国者と同様に国の援護対象になった。交流協会のサポートでこれまで家族を含め約300人が日本への永住を選んだ。いま、浮上しているのが2世、3世の就労や教育の問題だ。
 本人の場合、生活面では年金などが支給されるが2世は対象外。仕事がなければ生活保護を受けることになる。集団一時帰国第1陣のメンバーで、00年に永住帰国した近藤孝子さん(81)=東京都三鷹市=は「ロシア社会で育った者にとって日本語の習得は難しく、就職の道はさらに険しい」と案じる。
 帰国者の9割近くが住む北海道に、中国帰国者支援・交流センター(札幌市)があり、無料で日本語を学ぶことができる。それでも2世のなかには言葉の壁で就職できず、サハリンに戻った人たちがいた。孫の世代となると、教育資金や進路問題が立ちはだかる。「現状では大学に進学した子どもの生活保護は打ち切られることが多い。早くこうした制度を見直してほしい」と小川さんは訴える。
 「このまま支援をやめるわけにはいかない」。交流協会の会員有志が先月、新たなNPO法人「日本サハリン協会」を設立した。理事長を務める元アナウンサーの斎藤弘美さん(56)は「サハリンや旧ソ連各地には100人前後の日本人がいて、故国とのつながりを望んでいる。一時帰国は規模を縮小しても続けていく」と話す。
 戦後68年を迎え、戦争に人生を翻弄(ほんろう)された人々への関心は薄まっている。だが、彼らとその子孫が安心して暮らすための聞き取り調査や支援の充実が求められる。問題の深刻さを知る当事者が残る今でなければ解決は困難だろう。
 昨年末に誕生した新政権には、積み残された戦後処理の問題があることを十分に認識してほしい。(水と緑の地球環境本部)》
http://mainichi.jp/opinion/news/20130111k0000m070121000c2.html