人間中村哲をつくったもの3

 11日、中村哲先生の葬儀が福岡市で執り行われた。知人やNGO関係者ら1千人以上が参列したという。

 ひつぎにはアフガニスタン国旗がかけられ、中村さんとともに殺害された現地の警備員や運転手ら5人の遺影も置かれた。

 長男の中村健さんは真っ先にアフガン人5人への追悼の言葉を述べたという

 「最初に申し上げたいのは、父を守るために亡くなられたアフガニスタンの運転手や警備の方、そして残されたご家族・ご親族の方々への追悼の思いです。申し訳ない気持ちでいっぱいです。悔やんでも悔やみきれません。父も、もしこの場にいたら、きっとそのように思っているはずです。家族を代表し心よりお悔やみを申し上げます」。

 また、ペシャワール会の村上優会長は、中村さんの思いを引き継ぐことを宣言し、次のように語ったという。

 「中村先生はもともと敵とか味方とかという関係を止揚というか、乗り越え、悪い人も良い人もいて人生だと、共生を求められていた。今回の事件は、本人の生きてきたそのものを体現した、『崇高』とも表現すべき犠牲だと私は受け止めています。私たちは中村先生が実践してきた全ての事業を継続し、彼が望んだ希望は全て引き継いでいきたい」。

 遺骨の一部は本人の希望に沿って、用水路で緑の大地に変わったかつての砂漠に分骨されるというhttps://dot.asahi.com/wa/2019121300093.html?page=1

 「悪い人も良い人もいて人生」か。

 あれだけの大事業を現地で一人で仕切るには大変な苦労があっただろう。限られた資金の割り振り、現地の人々との軋轢・・苦悩することも多かったと想像する。その上で、現実のすべてを受け入れたのだろう。

 あらためてご冥福をお祈りします。
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 中村哲さんのファミリーヒストリーに8日の「Mr.サンデー」(フジTV)が触れていた。

 山田堰土地改良区元理事長の徳永哲也さん(72)は今年4月、中村哲さんに招かれてアフガニスタンを訪問した。番組では、そのときに撮影した映像が紹介された。
 中村さんの宿舎の中に飾られていたのは、祖父、玉井金五郎の写真だった。祖父を尊敬していたのだろう。

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宿舎の棚に飾られた玉井金五郎の写真

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1930年ごろの玉井組

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玉井金五郎

 ただ、金五郎の孫(火野葦平の息子、中村さんのいとこ)の玉井史太郎さん(82)によると「実際に玉井組を仕切っていたのはマンさんの方なんです」という。

 金五郎とマンから受けた影響については中村さんがこう回想している。

 「私の知る祖父・玉井金五郎は、すでに老齢で、往時の血気盛んな様子はなく、好々爺の印象しかない。子供には分からぬ事情で、金五郎は本家を離れて別宅にいたので、祖母(金五郎の妻)マンとの付き合いの方が深かった。」

 「この若松での生活で、印象的に記憶しているのは、熱烈な「軍国の母」であった祖母・マンの存在感と、伯父・火野葦平という作家の生き方であった。マンの生家は広島の郷士で、武家の風貌があってしつけには厳しかった。若松が空襲されたときは、皆を疎開させて一人残り、「竹槍で焼夷弾を叩き落として家を守った」という神話が生まれたほどである。本家の玄関に近い部屋で長火鉢の傍らにじっと座り、長キセルでタバコを吸っている姿は、「玉井家安泰」の象徴のようで、皆に畏怖と安堵の念を与えた。この祖母の説教が、後々まで自分の倫理観として根を張っている。弱者は率先してかばうべきこと、職業に貴賤がないこと、どんな小さな生き物の命も尊ぶべきことなどは、みな祖母の教説を繰り返しているだけのことだと思うことがある。」(『天、共に在り』P27~30)

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玉井マン

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幼年の中村哲さん

 「玉井組」を仕切ったマンの倫理観は、たしかに、中村さんに大きな影響を与えていたようである。マンに叩き込まれた「弱者は率先してかばう」などの教えは、中村さんの生き方に色濃く反映されているではないか。

 では、中村さんが伯父の火野葦平や両親(父の中村勉、秀子)から得たものとは何だったのか。
(つづく)