人間中村哲をつくったもの4

 E-1サッカー選手権を韓国でやっていて日本対香港の試合が14日に行われた。試合前に両国の国歌が流れるが、日本の『君が代』に続けて香港の番に中国の国歌が流れると会場ぼ香港サポーターによるブーイングに包まれ異様な雰囲気になったという。

 香港では民主派が大勝した区議選のあとも大規模デモ、集会がつづく。

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周庭さんのツイートより

 香港に関する報道が少なくなっているが、引き続き注目していきたい。
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葬儀に参列した人が「穏やかな優しい表情の遺影が皆を見守っているようだった」と言っていた

 中村哲先生の父親の中村勉がかつて共産党弾圧で逮捕されていたと先日のブログで書いたら、読者から情報提供があり、興味深い資料を目にすることができた。中村勉は、福岡県の左翼運動では指導的な立場にあった人物のようである。

 中村勉が逮捕された1932年(昭和7年)の「2.24事件」は、歴史に残る左翼への大弾圧だった。この弾圧は、一年間も秘匿され、翌年の1933年3月30日に記事解禁となり、特別号外が発行された。

 「百九十四名を検挙 十八名を起訴 早春 暁を期して県下一斉に大検挙」(「福岡日日新聞」昭和8年3月30日付号外)

 「福岡共産党・二月検挙 きょう午後二時記事解禁 検挙、百九十四名 県下空前の大検挙」(「九州日報」 昭和8年3月30日付号外)

 194名が逮捕された中で起訴は約1割の18名。その起訴された中に中村勉がいた。中心メンバーで幹部級ということである。

 中村勉は早大を中退し、当時は「全協金属若松支部キャップ」をしていた。福岡地裁で懲役2年6月の判決を受けたという。

 「全協」というのは「日本労働組合全国協議会の略称。 1928年(昭和3)日本共産党の指導の下に結成され、プロフィンテルン日本支部として激しい弾圧下で活動した左翼労働組合。 34年以後自然消滅。」(コトバンクより)

 金属、機械の労働者を対象にしたのが「全協金属」で、八幡製鉄所などは運動の主要なターゲットだった。

 日本を恐慌が襲って多くの企業が首切りをおこない、31年9月18日の柳条湖事件を機に、中国大陸への侵略が本格的に始まろうとしていた。全協が八幡製鉄所でまいたビラにはこうある。

 「政府自ら合理化の先頭に立ち、満州略奪戦争のためには、莫大なる軍事費を出しながら、労働者農民の失業に関しては一顧だに与えず、此苦境は、自主的革命的全協に依るべきのみ・・」

 「2.24事件」で逮捕された中村勉は、同じ「全協金属若松支部」で活動した後輩の永末清作と二人、若松署に留置されたあと、4月はじめに宗像署に移され、そこで徳重検事の取り調べをうけた後、福岡土手町拘置所に収監されたという。

 その永松清作が「先輩 中村勉さんのこと」という文章で彼の波乱万丈の前半生を語っていた。福岡県の左翼運動の中心メンバーだった中村勉とはどんな人物だったのか。
(つづく)