日本に裸婦像が乱立したわけ1

 テレビはスポーツ一色である。陸上世界選手権競歩で初の金メダル、女子バスケアジアカップ4連覇そしてラグビーワールドカップアイルランドに勝利・・・そのたびに「ニッポンすごい!」とスタジオが大盛り上がり。喜ばないと非国民扱いされそうだ。ちょっと異常じゃないか。
 そもそもスクラムを組むのはなぜか、ラグビーの基本のルールも知らないのに「すごい」と騒ぐかみさんに、「愚民化政策にのせられないように」などと嫌味を言ってはうるさがられている。
 明日から導入の消費税にしても、いつもながらの「これでお父さんのお小遣いが減るのではと・・」とか「かけこみでトイレットペーパーを両手で抱えた主婦が・・」みたいな小市民的な情景描写ニュースばかり。

    税はどうあるべきか、もっと鋭い切込みができないのか。山本太郎の消費税廃止の主張に惹かれる今日この頃。消費増税はうちのような零細企業に相当なダメージを与えるに違いない。今月末の超厳しい資金繰りで憔悴したせいか、不満が噴き出てしまう。
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 なぜ裸婦像がいろんなところに建っているのか、昔から不思議でならなかった。子供心に、こういう「いやらしい」ものをみんなに見せていいのか、とも感じていた。
 しかし、裸婦像を前に、中学校の美術の先生から「恥ずかしがってはダメだ。芸術なんだから正面からちゃんと見なさい」と言われた。芸術とは常識と違うものなんだなと無理に納得しようとしたが、違和感は消えなかった。
 海外に出て、その違和感は大きくなった。裸婦像がこんなに多いのは日本だけではないのか。
 だいたい裸婦像に、「自由の旋律」とか「希望の空へ」などと抽象的なタイトルをつけて図書館や公民館などの公共施設にドーンと飾ってあるのは、いったいどういうわけなのか。
 この長年の疑問を解いてくれたのは、いま開催中の国内最大規模の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」だ。といっても、私が観に行ったわけではなく、トリエンナーレに関する新聞記事による。
 「彫刻家の小田原のどかさん(33)は、日本に乱立する裸婦像に関する『事実』を作品化する。『私も持つ女性の裸体が利用された、という告発の作品です』」
 取り上げたのは、東京都千代田区三宅坂小公園.にある《平和の群像》。

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 これこそが、日本の公共空間における女性ヌード像の第一号であるという。そして、この像は日本の戦後のイデオロギー的転換を具現化したものだった。
 「三美神を意識した3人の女性の裸像だが、戦前は同じ台座の上に、軍人の騎馬像が建っていた(三宅坂一帯は帝国陸軍の拠点だった)。《寺内元帥騎馬像》は戦時中の金属回収によって撤去されたが、戦後、残された台座を再利用して設置されたのが《平和の群像》である」

 小田原のどかさんは、「三つの裸婦像『平和の群像』は、台座が大きすぎてアンバランスと思っていた。(略)戦中の金属供出でなくなった陸軍大将の台座を再利用したものとわかった。旧陸軍の参謀本部があり、軍国主義の象徴だった三宅坂に残った空の台座に『新しい日本』の平和の象徴として、女性の裸を『安易に載せた』と怒りを感じたという。

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たしかに台座がちょっと大きい。台座のすぐ右に国会議事堂が見える

 国立国会図書館にある連合軍司令部(GHQ)の報告書には、空の台座は平和的シンボルで埋めるべきだと記されていることもわかった。小田原さんは『反省もなく裸婦像を作って宣伝した』この場所から全国の公園などに裸婦像が広まったとみる。『彫刻は長期間残る人工物。その場所の歴史や文脈を考える視点を持たないと』」(朝日新聞7月30日夕刊)

 要は、GHOが日本を「平和国家」に転換すべく、軍事色を一掃しようとした方針への迎合が、平和のシンボルとしての裸婦像の乱立(しかも公共空間における)となって現れたという解釈だ。
 国会図書館に行ったついでに三宅坂小公園に行ってみた。

 おお、これが日本に裸婦像が広まった第一号か。私の昔からの違和感は間違っていなかったらしい。
 スマホで写真を撮りながら像の裏側に回ると・・・・そこには意外なものがあった。
(つづく)