アザミ。通勤路のコンクリートの割れ目から生え出て花を咲かせた。
いかめしいとげとげの総苞には鮮やかな色の花が似合っている。
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きょうのツイッターより
《中学の美術担任が最後の授業で言った「英語が上手いと17億人に伝わるけど、絵が上手いと70億人に伝わる」という一言で、休み時間に絵ばっか描いてた自分を冷やかす人がいなくなった。》http://twitter.com/meshimaccho/status/1145878457655554048
なるほどね、いい話だ。
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報道写真家、渋谷敦志さんと今福龍太さんのトークの続き。
今福:
写真のぎりぎりの誠実さということを、渋谷さんは日本のたぶん写真家、フォトジャーナリストの中でも、もっとも深く考えながら撮ってらっしゃると思うが、そういう写真の誠実さについてもっとも深いところで考えたフォトジャーナリストの一人が、水俣に長く暮らしていたユージン・スミスという人ですね。
彼は戦争報道もやったが、とりわけ水俣に深く入り込んだ。その彼の有名な言葉が、Let truth be the prejudice で、彼の墓碑にもこの言葉を刻んだ。直訳すると「真実を偏見にせよ」ということ。(注)
水俣を取材して変形した指や体、そして苦しげな表情などにカメラを向けていくこと自体が、苦しいことだと思うが、彼はやり続けた。
「これが水俣の真実だ」みたいなことを彼は決して考えていない。むしろ真実は常に偏りをもっているものだと。どれだけ真実を求めようとしても、すべてのものが、ある種の偏見、先入観の産物でしかない。
逆にいうと、一つの真実はないということ。どんな真実も偏りをもっているのだと。倫理的には、これは真実じゃない、間違ってる、違うんじゃないかと我々は迷うんだけれども、真実の厚み、深み、ゆらぎというものから真実にアプローチしていくかぎり、それは偏見の産物かもしれないけれども、それはもっとも真実に近い偏見として、ギリギリの産物になるということだと思う。
スミスは墓碑までそういう文言を残したが、ぼくらは深く受け止める必要があると思っていて、そうするとオブセッション、脅迫観念から逃れられる。この真実を絶対自分は撮らなきゃいけないという考え方自体が不遜なのかもしれない。
個人主義的な意味では、一人の悲惨な人々と向き合っていくときのディレンマから逃れられなくなるが、人間はそもそも事実とか真実とかを考えるときにもっているある種の神話というか、これが唯一の真実だと思うこと自体がプレジディス、先入観なんだと。
そうすると、ぼくらが持っている先入観は、問題はあるんだけれども、真実という厚みをもったものに置き換えてやる、という考え方で現場に立てば、また違ったビジョンが出てくる可能性はあるかと思う。
渋谷:
スミスは僕も座右の書だが、僕がおぼえている問いかけの言葉は「写真家の責任」。
撮らせてくれる人と写真を観てくれる人に責任を果たすのが写真家としてのモラルでは。
自分は写真を撮らせてくれる人とこうして観て下さる人との間の、最近好んで使う言葉だが、「オーガニックなつながり」のなかで何かを届ける。「根幹の言葉」を写真でとどけていきたいと思っている。
スミスもそういうなかで「真実」ということへの考え方を深めていったのではないかと想像する。
注)スミス自身は、この言葉について
「反語的に使った言葉です。人間はだれでも、偏見を免れることはできない。すべての人間がなんらかの偏見を持っている。私もそれから自由ではないでしょう。しかしせめてこれを真実に近づけたい、そう願うからです」と言っているという。
(つづく)