かつて日本は子どもの楽園だった(2)

 月は弥生。きのう6日、ついに啓蟄(けいちつ)になった。
 土の中で冬籠りしていた生き物が地上へと這い出してくるころという意味だそうだ。ひと雨ごとに春が近づくという表現があるが、それがまさにこの時期。漫画で描くと、冬眠から寝ぼけ眼のカエルが這い出してくるの図か。
 その啓蟄に合わせるかのように、日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告が、保釈されて東京拘置所から出てきた。弁護団を一新した効果か。
 6日からが初候「蟄虫啓戸」(すごもりのむし、とをひらく)。冬眠していた生き物が春の陽のもとに出てくる。

 次候の「桃始笑」(もも、はじめてさく)が11日から。笑うという字で「さく」と読む。武井咲(たけいえみ)という名の女優がいて、こちらは咲くという字を「えみ」と読ませる。不思議だなと思って調べると、「咲」は「笑」の古字で、もとは同じなのだという。花が咲くのは笑っているのか・・・。いろんな想像をするとおもしろい。
 16日からは末候の「菜虫化蝶」(なむし、ちょうとなる)。菜虫とは青虫のことで羽化して蝶となり羽ばたいていく。まだ寒い日もあるが、春である。

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 中東の旅から

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 子どもを可愛がり、家族を大事にする点で、日本人はとてもかなわない。
 しかし、昔の日本はまた違っていた。

 そこで前回の続き。
 いま体罰が問題になっている。一般には昔の日本では体罰を容認していたと思われているが、実はもっと昔、江戸末期から明治初期にまでさかのぼれば、子どもを叩く光景は見られなかったという。以下、渡辺京二『逝きし世の面影』より。
 外国人たちは日本の親が子どもを非常に可愛がることに一様に驚いている。
 「イザベラ・バード明治11年の日光での見聞として次のように書いている。『私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れていき、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子どもに誇りをもっている。毎朝6時ごろ、12人か14人の男たちが低い塀に腰を下ろして、それぞれ自分の腕に2歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ていると大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題となっているらしい』。」
 熱心なイクメンばかりの光景である。そこには体罰など見られなかった。
 「フォンベリ(オランダ長崎商館の館員)は『注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、(略)子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった』と書いている。」
 日本に体罰がないのはこの時代だけのことではなく、長く伝統になっていたようで、すでに16世紀に目撃されていた。
 「16世紀末から17世紀初頭にかけて、主として長崎に住んでいたイスパニア商人アビラ・ヒロンはこう述べている。『子供は非常に美しくて可愛く、6,7歳で道理をわきまえるほどすぐれた理解をもっている。しかしその良い子供でも、それを父や母に感謝する必要はない。なぜなら父母は子供を罰したり、教育したりしないからである』。日本人は刀で人の首をはねるのは何とも思わないのに、『子供たちを罰することは残酷だと言う』。かのフロイスも言う。『われわれの間では普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多におこなわれない。ただ言葉によって譴責するだけである』。」(P390~393)
 では、こうして溺愛ともいえる親の愛しみのなかで、子どもたちはどんな人格を育まれていったのだろうか。
(つづく)