岸田内閣で拉致問題の進展はあるのか4

 節季は大雪(だいせつ)で、さすがに寒くなった。

 初候「閉塞成冬(そらさむく、ふゆとなる)」が12月7日から。
 次候「熊蟄穴(くま、あなにこもる)」が12日から。    
 末候「鱖魚群(さけのうお、むらがる)」は17日から。
 サケを食べて熊が冬眠するのだから、時系列では次候と末候は逆では?    

 あと3週で新年か。今年を振り返らなくては。
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 ドイツ初の女性首相となり、16年もの長期にわたってドイツとEUを率いたアンゲラ・メルケル氏が退任した。12月2日に行われた退任の式典では、旧東ドイツのパンクロック歌手ニナ・ハーゲンの「カラーフィルムを忘れたのね」を選んで話題になった。

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「カラーフィルムを忘れたのね」を聴くメルケル氏(テレビ朝日

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ニナ・ハーゲン。いいね!

 以下で曲が聴ける。パンクといっても、おとなしい曲だ。

Nina Hagen - Du hast den Farbfilm vergessen 1974 - Bing video

 

 メルメル氏の数々の名言、名場面がメディアで特集されているが、その中から選ぶと―

 日本の東日本大震災のあと、原発を終わらせ、再生可能エネルギーを推し進める決断をした。19年、Fridays for Futureによる抗議デモがドイツ各地で広がった際の言葉。

「一科学者として感心するのは、グレタ・トゥーンベリが『科学に基づいて団結する』と話すことです。イデオロギーではなく、多くの科学的根拠に基づいて行動しなければいけないことを打ち出していることです。ただ、政治と科学の何が違うかというと、実行に移す大きな力があるということです」

 なるほど。

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2019年12月、ポーランドアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を公式訪問、「私たち全員が責任を負っています。その責任のなかには、過去を記憶することも含まれています」と語った。 https://www.vogue.co.jp/change/article/chancellor-angela-merkel-10-quotes

 「謙虚とは無気力の謂(いい)ではなく、無限を知ったことから生まれるポジティブで、希望に溢れて生を形成する感覚です」(「折々のことば」朝日12月3日より)

 すばらしい。

 こういう哲学的な言葉を日本の政治家からも聞きたいものだが・・。
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 前号のつづきで、田中実さんの拉致について。

 田中さんの拉致は、日本における北朝鮮工作組織の一つ「洛東江」(ナクトンガン)の工作員だった張龍雲(チャンヨンウン)氏が暴露して表面化した。

 私は張氏の神戸の自宅に通って取材した。コーヒーが大好きだと知り、お土産にはコーヒー豆を持って行った。糖尿病が悪化していて、顔にやつれが見えたが、インタビューには時間を延長して応じてくれた。信頼関係があったからか、張氏の著作朝鮮総連工作員~「黒い蛇」の遺言状』小学館文庫)の解説を書かせてもらった。

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1999年刊

 この本から田中実さん拉致の事実関係について紹介しよう。

 ラーメン店を経営していた韓という男は、張氏と同じ組織の工作員で、山口県長門市近くの海岸をゴムボートで出て、沖合に待機していた潜水艦に乗り込んで北朝鮮の元山に行った。そして労働党に入党し、新たな任務を帯びて再び非合法で日本に戻った。

《拉致誘拐した田中実には身よりがない。幼いころ両親は離婚し、その後両親とは一度も会っていない。

 1978年6月6日、成田より出国した田中は。韓の経営するラーメン店で働いていた。彼は韓を兄とも思い、なんでも相談していた。

 韓は彼を言葉巧みにオーストリアのウィーンまで誘い出している。ウィーンには北朝鮮の情報機関「ゴールデンスターバンク」があり、西側への窓口としての役割を果たしていた。

 ウィーンからモスクワまでは社会主義国家を経由した陸路で、そしてモスクワから平壌までは空路を利用した。

 ソン・イルボン(労働党の工作機関「3号庁舎」の幹部)はこの拉致事件を私が承知しているものと勘違いし、「田中実は平壌に連れてきた後、平壌の生活になじまなくてしばらく手を焼いたが、日本人と結婚させ子どもを一人もうけ、現在はやっと落ち着いている。職業はラジオ放送の翻訳の仕事をさせている。日本には安心するように伝えてくれ」と話した。

 私は韓の店から田中が姿を見せなくなったことには、何の疑問もいだかなかった。

「どうせやめてどこかの店に移ったのだろう」と思っていたからだ。だからこの話を聞いて愕然とした。》(P117-118)

 ソン・イルボンとは、北朝鮮の工作機関「社会文化部」の幹部で、万景峰号に乗って、しばしば日本を訪れ、工作員を指揮していた。

 張氏は田中さん拉致を告白してから、拉致の解明に積極的に協力するようになり、被害者家族とも会っている。本には《ある方の家族とお会いしたが、その無念を思うと自らを恥じ入ることしか私にはできなかった》とある。工作員時代の所業を恥じ、後悔していた。

 なお、田中さんが《子どもを一人もうけ》たとあるが、張氏が横田めぐみさんの両親あてに書いた手紙(これを私は見せてもらった)には「一男」と記されていた。

 金田龍光さんのケースは、田中さんに続いて発覚した。特定失踪者問題調査会のファイルに概要が紹介されている。

《金田さんは韓国籍。田中実さん(昭和53年に拉致)と同じ施設で育った。昭和52年ごろ、田中実さん拉致実行犯韓竜大が経営するラーメン店「来大」に就職。昭和53年に田中実さんを「来大」に紹介し、ともに働く。昭和53年、韓竜大の誘いにより、田中実さんがオーストリア・ウィーンに出国。半年ほどして、田中実さんが差出人になっているオーストリアからの国際郵便を受け取る。その内容は「オーストリアはいいところであり、仕事もあるのでこちらに来ないか」との誘いであった。田中さんの誘いを受け、打ちあわせと言って東京に向かったが、以後一切連絡がなく、行方不明となる。連絡がないことを不思議に思った友人が、この間の事情を知る韓竜大に再三説明を求めたが、「知らない」と繰り返す。その後失踪した2人を知る友人たちの間で「2人は北朝鮮にいる」との噂が広まり、韓竜大に近づくものがいなかった。「救う会兵庫」は平成14年10月に韓竜大、15年7月にその共犯である曹廷楽についての告発状を兵庫県警に提出している。》金田 龍光 | 特定失踪者問題調査会 (chosa-kai.jp)

 私たちは張氏の証言をもとに、二人の失踪に関与した人物にあたり(取材当時、韓は青森県八戸市に住んでいた)、その他の取材を重ねたうえで、1999年段階で、田中さんも金田さんも北朝鮮に拉致されたことは間違いないと結論づけていた。その後、2005年、政府は田中さんを拉致被害者に認定した。

 一つ留意したいのは、北朝鮮工作機関は身寄りのない人を拉致対象に選ぶケースが多々あることだ。いなくなっても騒がれず、発覚を防げるからだ。二人は養護施設で育ち、連絡をとっていた親族はいなかった。田中さんの拉致は政府認定なのだが、家族会に参加する人もおらず、一般にはあまり注目されていない。
(つづく)