惠谷治さん逝く

 アジサイが準備OKといいたげだ。花屋には紅花がならんでいた。
 節気は小満。あらゆる命が満ちていく時期、太陽を浴び、万物がすくすくと育つ季節だとされる。きょう21日から初候「蚕起食桑」(かいこおきて、くわをはむ)。26日から次候「紅花栄」(べにはな、さく)。31日からが末候「麦秋至」(むぎのとき、いたる)。農家が忙しくなる時期でもある。
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 惠谷治(えやおさむ)さんが昨夜亡くなったことを岡村隆さんのFBで知る。享年69。膵臓がんだったという。
 惠谷さんは早大探検部出身。ギニア高地などの探検、エリトリアやアフガンはじめ世界各地の戦場取材などで知られた人だが、私にとっては北朝鮮問題の取材で大変お世話になった先生である。惠谷さんが売れっ子になっていったきっかけの一つは私たちの番組だったと思う。まだ恵谷さんがあまりテレビに出ていなかった時期、私たちは恵谷さんに毎回のように番組に登場してもらった。二十番組ではきかないだろう。『北朝鮮「対日潜入工作」』(宝島社)では共著者としてご一緒させてもらった。
 ネット情報に頼らないアナログな方法で膨大な事実をこつこつと積み上げての緻密な分析は、他のジャーナリスト、研究者の追随を許さないものだった。惠谷さんとの思い出はたくさんある。北海道への出張をお願いしたこともある。2001年暮れ、海保の巡視船と銃撃戦の末、北朝鮮工作船が自爆した「九州南西海域工作船事件」が起きた。船橋を100発以上の銃弾に貫通され、3名の負傷者を出した海保の巡視船「あまみ」が小樽に巡回展示されたので、惠谷さんに分析してもらおうというのだ。多忙な惠谷さんに出張になるが大丈夫ですかと聞くと、「ぜひ行きたい、実はおれ、北海道には行ったことがないんだ」という。世界を駆けた惠谷さんだが、国内はあまり回っていないことに驚いた。取材では、「あまみ」の銃弾痕をじっと観察し、「使われた銃は3種類」だと断言、それぞれの銃器の種類を挙げたのだった。この取材には後日談があって、小樽の恵谷さんのコメントは使えないとテレビ局のプロデューサー に言われた。惠谷さんはそのとき、愛用のレイバンの濃いサングラスをしたまま解説していて、それが怪しすぎるというのだ。ビデオを再生すると、たしかに怖い。サングラスのまま撮影した私のミスだった。そこで「あまみ」が横浜に来たときに再び恵谷さんに登場願って、コメントをいただいた。もちろん今度はサングラスは外してもらって。
 世田谷区赤堤のお宅にも何度もうかがってレクチャーを受けた。恵谷さんの仕事部屋は本と資料、どこかの戦場で拾ってきた薬きょうなどの珍品が部屋の周囲に積み上げられており、独特の空間だった。2時間も話し込んでいると、奥さんとお嬢さん(長女)が外に出ていく。2階建てアパートでスペースはさほど広くないので、我々のような客がいると息苦しいのだろう。追い出してしまったようで申し訳ない思いをした覚えがある。
 惠谷さんの分析に感心させられたことは数知れないが、彼は北朝鮮の軍事的実力を決して過小評価していなかった。世界の最新の技術を取り入れられなくとも、スカッド、ノドン、テポドンとほぼ独力で開発してこれたのは、根気よく泥臭く基礎的な技術を組み合わせてきたからだという。最近では、北朝鮮のミサイル開発のスピードが急速に上がっているとの指摘http://news.tbs.co.jp/newsi_sp/shinsou/archive/20170607.htmlや、増加する北朝鮮の漂着船の帰属を3種類に分け、工作員の浸透とは関係ないと結論づけた記事https://www.sankei.com/premium/news/180303/prm1803030016-n1.htmlなどが惠谷さんらしい。
 また、物事の本質をズバッと一言で言い表すのも痛快だった。「日本人は奇特な国民で、将来、北朝鮮と国交を結んだら巨額の資金援助をすることを、ほとんどの人が当然と思っている。これが北朝鮮に対する日本の最大の安全保障なんだよ」。なるほどなあ、と感心させられる。
 惠谷さんは、かつてテレビ番組の制作会社を友人とともに立ち上げた。ところがすぐに辞めてしまう。理由を聞いたら、「だんだん会社を維持するために働いているようになってきて、これは自分の求める道ではないと思った」とのこと。フリーは大変であることは知っているが、ちょっとうらやましい気もする。会社を維持するために働く私としては。
 世間の風向きに左右されずに、自分のスタイルを持っていた人で、一人になっても言うべきことは主張した。かっこいい人である。両切りピースの吸い口をトントンと箱に叩きつけて、実にうまそうに吸っていた。あまりにうまそうで、一時真似して私も両切りピース党になったものだ。
惠谷さんとは実は北朝鮮問題からではなく、探検部―日本観光文化研究所―地平線会議のラインで知り合った。25年ほど前、かみさんと一緒に銀座線に乗っていたとき、たまたま同じ車両にいた惠谷さんにかみさんが気付いて私を紹介してくれたのが初対面だ。かみさんは観文研の事務局にいた関係で、早大探検部OBの恵谷さんを知っていたのだ。
 北朝鮮問題で教えられもし、また一緒に遊んでもらい、ほんとうに感謝している。以下は、法政大学の探検部のOBである岡村隆さん(月刊『望星』前編集長)がFBに出したお知らせだ。ご冥福を心よりお祈りします。
※これまでの経緯について
 昨年3月に膵がんが発見され6月に手術、一時は回復し仕事を続けるも年末にいたって肺などへの転移が認められ体力が低下。しかし3月の準備を経て5月の連休には伊豆大島での早大探検部三原山火口探検50年の行事に参加、三原山登山も果たしたほか、かわぐちかいじの長編漫画『空母いぶき』の原作制作、月刊誌記事執筆、北朝鮮研究の会合参加を続け、拓殖大学でのシンポジュウムにもパネラーとして出席した。その後5月15日に容態悪化し入院、5日後の20日、親戚縁者や早大探検部OB、関野吉晴ら友人の見舞いを受け、会話不能ながら頭脳は覚醒した様子であったが、夜半にいたり心停止した。