北朝鮮は何人を拉致したのか?(6・完)

 先日、「朝日新聞」8日朝刊のウクライナの首都キーウ発の記事を紹介した。朝日の記者が戦闘が収まったキーウに戻ったのは7日ということになる。

 このところ連日キーウから記者が顔出ししているNHKの場合はいつ戻ったか、録画をチェックしていたら、11日だった。

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(11日のNHKニュースより)

 2、3日前、最前線のウクライナ軍に従軍して取材している欧米のメディアの映像を観たが、画面に出てくる兵士の表情や動き、装備、住民との関係などから戦闘のリアルが見えてくる。やはり戦場取材も重要だ。

 日本の大マスコミが「危険地」から引く中、フリーランスががんばっていたが、遠藤正雄さん、新田義貴さん、藤原亮二さんなどはウクライナを離れた。フリーは予算のリミットもあるので、どうしてもヒットエンドランというか短期取材になってしまう。戦地に近づくほど、宿泊施設、車両などが高騰する場合があり、クレジットカードが使えず手持ちのドル札だけが頼りというときもある。

 いまキーウ周辺に残っている私の知り合いでは、先日紹介した伊藤めぐみさん、八尋伸さんがいる。また綿井健陽さんが「ウエークアップ」や「ニュース23」でリポートしている。

 期待しています。

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 ロシアの侵攻に激しく抵抗するウクライナに支援する動きに対して、「うーん、ロシアが悪でウクライナが善とか、そういう単純な話じゃないんだよな・・」と煮え切らないしたり顔の人たちがいる。

 篠田英朗氏は、これを精力的に批判している。ご一読を。

gendai.ismedia.jp


 映画監督の河瀨直美氏が東大入学式でのべた祝辞。

「「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?」

 これも結局「どっちもどっち」になるのでは。


令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)
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 1963年という早い時期の拉致として知られるのが寺越武志さんたち3人が拉致された「清丸事件」だ。以下、以前のブログから引用する。

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(寺越武志さんは13歳のとき行方不明になった)

《石川県の寺越武志さんは、1963年、二人の叔父、昭二さん、外雄さんとともに「清丸」という小さな漁船で漁に出かけ帰ってこなかった。

 漁といっても、夜、岸から数百メートルのところに刺し網をしていつもなら朝戻ってくる。その夜は風のないベタなぎで遭難は考えられない。三人を探すと、数キロさきに空っぽの船だけが漂っていた。船の前方に何かにぶつかったような破損個所があった。不思議ではあったが、3人の葬式も済ませた。

 武志さんはわずか13歳。めぐみさんが失踪した歳と同じである。

 ところがそれから24年経った1987年、北朝鮮から、元気でいるとの手紙が突然届いた。昭二さんはすでに亡くなり、外雄さんと武志さんは亀城(クソン)という地方で家族を持ち、旋盤工として働きながら暮らしていた。

 武志さんのお母さん、友枝さんは、当時の社会党の代議士のつてで北朝鮮にわたり武志さんと劇的な再会をとげる。そして、63年の「清丸事件」は、遭難していた武志さんたちを通りかかった北朝鮮の船が救助したという「美談」に、母子の再会は北朝鮮の配慮のもとでの感動話にされた。》

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(清丸の舳先は大きく破損していた)

 

takase.hatenablog.jp

 

 寺越武志さんの母、友枝さんは一時拉致事件として追及してほしいと「家族会」に入って活動したこともあるのだが、武志さんから「騒ぐのはやめてほしい」と頼み込まれ、離脱した。友枝さんは北朝鮮の息子を訪ねることでよしとし、日本政府も拉致であることは確実なのだが、拉致認定しないまま今にいたっている。

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(友枝さんは北朝鮮の武志さんを何度も「訪問」してきた)


 私たちが驚いたのは、武志さんと叔父の外雄さんが、地方の町で一般の労働者として暮らしていたことだ。そして二人とも、北朝鮮の女性と家庭を持っていた。

 横田めぐみさんや蓮池さん夫妻、地村さん夫妻をはじめ、私たちが消息を知る拉致被害者たちはみな、労働党の対南工作部門(3号庁舎)の特別な管理のもと、「招待所」と呼ばれる特殊な「村」を転々とさせられている。北朝鮮の国民と結婚した人はいない。

 なぜ、寺越さんたちは扱いが違うのか。

 寺越さんたちの場合は、日本の領海に入ってきた工作船が船と衝突するなどして目撃されたから拉致する、いわゆる「遭遇拉致」だったと思われる。そして63年ごろは、日本人を拉致して工作員として養成したり、工作員の教育に使うという目的はなかったから、彼らを受け入れる特別な施設は用意されていなかったのではないか。

 日本から漁船や漁民が消える事件は少なくない。

 私は奄美大島をぐるりと回って調べたことがあるが、不思議な事件を何件か聞いた。なかには夜、凪の入り江にいたのに、翌朝、船が空っぽで人が消えていたという話もあった。もちろん北朝鮮と結びつける証拠はなく、寺越さんたちのようなケースが、どのくらいあったのかは分からない。

 寺越さんたちも、北朝鮮からの手紙が実家に届くまでは情報は皆無で、「死亡」とされていた。北朝鮮というのは、世界でも類を見ない情報統制社会なので、国全体が牢獄のようで、一般社会に拉致被害者が生活していても外の世界に知られることがない。

 とはいえ、90年代に飢餓が広がり、食べ物を得るための国境での密貿易や中国への出稼ぎ、脱北などが流行ってくると、内部情報は大量に外に漏れるようになっていった。一般国民としてくらす拉致被害者がいたとすれば、この統制の乱れをついて、日本の親族などに連絡をとることができたのではないか。いまだに寺越さんの事件しか表に出ていないのは、同じような被害者の数は多くないことを意味しているように思われる。

 8年前、ある国際機関が、日本人拉致被害者の数を「少なくとも100名」と推定したことがある。(以下、「北朝鮮難民救援基金」ニュースレターより引用。)

 2014年2 月 17 日、「北朝鮮における人権状況を調査する国連事実調査委員会」は、《日本人を含む外国人拉致や政治犯収容所など多くの人権侵害行為を余すところなく指摘し、北朝鮮が国家として組織的に「人道に対する罪を犯した」と非難する最終報告書を公表した。報告書は「人権侵害の重大性、規模、性質は現代世界で類を見ない」とし、「北朝鮮による広範な人権侵害を裁くため、国連安全保障理事会に対し国際刑事裁判所ICC)への付託」を勧告した。

 日本人拉致は朝鮮労働党の 35 号室(高世注:「対外情報調査部」のこと)が実行。日本の警察は北朝鮮による拉致の可能性を排除できない行方不明者約 860 名につき捜査を継続中とし、「北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際 NGO 連合(ICNK)」日本チームは拉致被害者数が少なくとも 40 名、恐らく 100 名以上にのぼると証言。調査委は少なくとも 100 名の日本人が拉致された可能性があるとの考えだ。特定失踪者問題調査会は約 280 名の拉致被害者の「可能性がある」と考え、うち77 名は可能性が「濃い」とし、調査委はその全てではないかもしれないが実際の拉致と考えると記述。》

https://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/news8704.pdf

 ここに出てくる「北朝鮮における『人道に対する罪』を止める国際 NGO 連合(ICNK)」は、世界三大人権NGOアムネスティヒューマンライツウォッチ、国際人権連盟)と関連NGOからなる連合体。

 この団体の「少なくとも40名」はいい線だと思うが、調査委の「少なくとも100名以上」は過剰な感じがする。

 ざっと「最大で50名」を私の推測値としておこう

 こう考える理由があるのだが、今は公表できない。いずれ書けるときが来ると思う。

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北朝鮮から日本人に関する「再調査」の結果のリストが提示されたと一面で報じた「日経」上が2014年7月10日付、下が7月3日付。官邸は「誤報」だと否定したが・・)

 

(この連載はとりあえずおわります)