神田の老舗の蕎麦屋「まつや」。うちのオフィスから歩いて5分だ。
行列も師走の風情である。
たまに入るが、普通の蕎麦屋とは雰囲気が違う。かまぼこと熱燗を頼み、締めにざるそば、などと昼間から一杯やっている初老の趣味人が多い。
こちらは先日コンビニで買ったカップ麺。
気のせいか、他のカップ麺よりうまいような・・
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きのう28日は佐渡市の曽我ひとみさんと一緒に拉致された母ミヨシさんの誕生日だった。失踪当時46歳だったミヨシさんは、86歳になった。
1978年8月12日、当時19歳で佐渡総合病院の准看護師だったひとみさんは、休日でミヨシさんと夕食の買い物に出かけた帰りに、一緒に拉致された。ところが、ひとみさんは北朝鮮でミヨシさんと会ったこともなければ、消息を聞いたこともない。2002年に拉致を認めた北朝鮮側は、ミヨシさんは「入境していない」と主張している。心配な点でもあるが、帰還した拉致被害者、地村富貴恵さんが興味深い証言をしているので紹介したい。
《「これ、何やろ」
1980年代初め、北朝鮮の首都、平壌近郊の忠龍里(チュンニョンリ)にある招待所で、拉致被害者の地村保志さん(54)、富貴恵さん(54)夫妻は1枚のメモを見つけた。備え付けの鏡台の引き出しの底板に小さく折りたたんで張り付けてあった。
広げると、A4判ほどの大きさの紙だった。ハングルで朝鮮人の名前が書かれていた。その横には漢字で「久我良子」という日本名。「くがよしこ」と読み仮名もふられていた。文面はこう続いていた。
「50歳代/1978年に革命のために朝鮮に渡ってきた/主人は交通事故で死亡/26歳の娘がいて、結婚した」
ほかにも、記述はあった。「久我良子」が北朝鮮に渡る前に、漢字と片仮名が入った名称の工場に勤務していたことや、新潟・佐渡の住所。メモの下の方にボールペンのようなもので塗り消された跡もあった。
「書いた人は本当のことを書きたいのだが、どうしても書けない。自分の存在を知ってもらいたいが、知らせることができない」
地村さん夫妻の文面に対する印象はこうだったとされる。富貴恵さんが招待所の世話係の女性に尋ねると、「久我良子」は「あなたたちが来る前に住んでいた女性で、招待所を出て韓国人の漁師と結婚した」と説明されたという。
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忠龍里の招待所は平壌から直線で南南東に約22キロ、標高約300メートルの月隠山(ウォルウンサン)の南西に広がる山里にあった。
地村さん夫妻がこの招待所に入ったのは拉致された翌年、79(昭和54)年11月だった。夫妻は転入直後に結婚。以後約7年間をこの招待所で過ごした。
同じ地区の招待所には79年から85年秋にかけて、横田めぐみさん=拉致当時(13)=や田口八重子さん=同(22)、めぐみさんの元夫の韓国人拉致被害者、キム・チョルジュン氏らが相次いで転入。一時期は、日本人被害者6人が同時に暮らすほどの“日本人集住地”だった。そこに、「日本から来た」と告白する女性がいたことを、警察当局は重視している。
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「ずっと気になっていたんです。ひょっとして、曽我ひとみさんのお母さんではないだろうかって…」
平成16年9月中旬、警察当局の事情聴取に協力していた富貴恵さんは、北朝鮮の招待所で見つけた「久我良子」のメモについてこう話したという。
「佐渡」という住所、北へ渡った78(昭和53)年という時期、娘の存在、「ソガミヨシ」と3文字が重なる「クガヨシコ」という名前…。曽我ミヨシさん=同(46)=との共通点は偶然とは思えない。「漢字と片仮名が入った名称の工場に勤務」の部分も気になる。ミヨシさんは「北越ヒューム管工場」に勤務していたからだ。》(2011年の産経新聞)
証言に出て来る「忠龍里」とは、日本人拉致被害者が何人も一緒にくらしていたところで、このブログでも何度か書いた。はたして、ミヨシさんも一時期、そこにいたのか。そして、いま高齢となったミヨシさんはどうしているのか。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20170915
年の瀬、家族や恋人同士が寄り添う時期に、拉致被害者の帰還を切に願う。