宮本常一が見た昔の日本人2

  きょうは取材で、ある人に会いに、秋川渓谷の近くに出かけた。
 小雨がぱらつく曇り空の下、夏休みの子どもたちがたくさん河原で遊んでいた。




 竹林に囲まれたカフェで、コーヒーを飲みながら話を聞く。外には小さな白い花をつけた草が一面に群生している。ひんやりした空間が広がっているようで、いい感じだ。ヤブミョウガだそうだ。ただミョウガとはまったく違う種類で食べられないという。
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 宮本常一の話の続き。
 「日本列島の白地図の上に宮本くんの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」(渋沢敬三)といわれたほど、日本中津々浦々を旅した宮本の文章には、泊まった宿や家の話が登場する。

 昭和12年3月、宮本は白山信仰で知られる越前の山奥を旅した。この年の7月には日中戦争がはじまる、そんな時期である。宮本は、越美南線の終点北濃の「駅まえのいたって粗末な棟割長屋風の宿」に泊まった。
《あくる朝、昼の弁当をつくってもらって、勘定を払おうと思ってきいてみると、80銭だという。三食で80銭は安すぎると思って茶代をつつむと受けとらない。
「あんたは商売人ではないのだから、もらえぬ」
という。こういう宿では茶代は金をたくさん持っている者だけからとるのであろうか。それにしても親切な心が身にしみてうれしい。》宮本常一著作集36、P11~12)

 それから数日後、日が暮れて吹雪になり、夜9時にもなってようやくある部落の小さな宿に泊めてもらったときのこと。老女と嫁と孫の男の子でやっている、今でいう民宿のようなところだった。

 《その翌朝は宿の人たちは早くから忙しそうであった。起き出て見ると、栃餅が搗かれており、とうふもわざわざ作ってくれて、それにエゴマをすりつぶしたのが醤油とともにかけてある。このあたりのご馳走の一つである。お膳の上の一つ一つのものがみんなあたたかい心のこもったものである。何もかも大変おいしい。喜びながらたべるといくらでもすすめてくれる。栃餅の味のよいのは栗がたくさんはいっているとのことである。まるで帰ってきた息子のようにふるまわれて、弁当も作ってもらった。勘定を請うと60銭くれという。有難さが身にしみているので1円包むと、どうしても受け取らぬ。とうとう請求通りに60銭払って、男の子に10銭を持たせた。一家三人の人は家のまえへ出て見送ってくれた。朝日の光のかがやかしい道で三人はみんな笑って手をふっていた。》(P20)

 読んでいるこちらまでうれしくなる。宮本は行く先々で、こうした愛すべき人々と出会っていたのだ。
(つづく)