鬼海弘雄の「懐かしい未来」

 また節気が変って5日から「芒種」(ぼうしゅ)になった。
 芒(のぎ)とは稲などの先にある突起の部分で、芒種とは穀物の種を蒔くころのことだという。麦の刈り入れから田植えに移行する時期になる。今頃を麦秋というのだろう。明日、西日本は梅雨入りだという。かみさんが梅を干している。梅酒が楽しみだ。
 5日から初候「螳螂生」(かまきり、しょうず)
 11日から次候 「腐草為蛍」(くされたるくさ、ほたるとなる)
 16日から末候 「梅子黄」(うめのみ、きばむ)
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 このところ、テレビで安倍内閣の面々の言動を観て落ち込んでいる。
 文書を出せと言えば「廃棄した」
 文書があったじゃないか「怪文書だ」
 名前が載っているぞ「同姓同名はいる」
 さすがに調べざるを得ないだろうと思っていると、「文部科学省において検討した結果、その出どころや入手経緯が明らかにされていない場合は、その存在・内容などの確認の調査を行っていないと承知している」(菅官房長官)。
 ここにいたっても、調査しないと言うのだ。狂ってる・・道理も最低限の常識もない。
 国民のひとりとして声を上げなくては。
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 鬼海弘雄さんの写真展。
 ひとつ聞きたいことがあったのでトークのあと、鬼海さんに話しかけた。「懐かしい未来へ」という言葉が気になっていたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20170527

 私「写真集『インディア』の前書きに『懐かしい未来へ』という言葉がありましたね。スウェーデン人のヘレナ・ノーバーグ=ホッジが書いた『懐かしい未来』という本と関係ありますか」
 鬼海「それは知らないです。『東京夢譚』のころから、『懐かしい未来』という言葉を使ってますね。同じように感じる人がいても当然だろうと思います」

 調べて見ると、たしかに「場所の肖像」を編んだ『東京夢譚』(2007年)のあとがきに「なつかしさ」について書かれていた。

 《なつかしさへの記述や写真がおおいのは、なつかしさとは固まってしまった時間への一方的回顧ではなく、本来しなやかなもので、今という時間の端から紐をゆらすと過去や未来までつながってゆれあう関係だという妄想をいだいているからだろう。
 誰でもが自分の体験を通して、いま立っているところからもうすこしだけ踵をあげ、たがいにもう少し生きやすくなる「世界」への、ゆるやかな眼差しをつむぎだすものだという錯覚をもっている。
 他人(ひと)への思いのつながりの無いところには、きっとなつかしさが生まれるはずがなく、共感も生まれるはずがないのだから》
2006年冬至の夜に

 とある。懐かしさを過去だけでなく未来につなげていく哲学的な時間論。すてきな文章である。
 ただ、ヘレナの「懐かしい未来」とは別物だった。こちらは近代文明のオルタナティブ(別な選択肢)をめざす闘いの合言葉である。
(つづく)