「赤報隊」を追い続けて30年

 玄関先に小さな赤い花が咲いた。
 植えた覚えがなく、自然に生えてきた。調べると「ヒメヒオウギ(アヤメ)」という植物らしい。6枚の花弁のうち下の3枚の付け根が濃い赤になっている。南アフリカが原産だそうだ。遠くからやってきたんだな。
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 おととい19日(金曜)深夜25時25分からTBSで、JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス 「特命 赤報隊を追え〜朝日新聞襲撃事件30年」を観た。

 《記者2人が死傷した朝日新聞阪神支局襲撃事件から30年。赤報隊を名乗る犯人は捕まらず、事件は未解決のままだ。
 この30年間、事件を追い続けてきた朝日新聞の記者がいる。樋田毅(ひだつよし)さん。65歳。樋田さんは定年を過ぎた今も、朝日新聞大阪本社に籍を置き、あの事件と向き合っている。事件はなぜ未解決なのか?30年経ったいま、赤報隊事件の意味とは?
「取材を止めたら赤報隊に敗北したことになる。だから取材を続ける・・」そう語る樋田さんの日々に密着しながら、事件の概要、影響、教訓などを伝えると共に、言論をめぐる今日的状況について考える。(ディレクター:秋山浩之)》
 1987年の5月3日、憲法記念日の夜、「赤報隊」を名のる男が朝日新聞阪神支局を襲い、小尻知博記者(29歳)が殺され、犬飼兵衛記者(当時42歳)が負傷した。当時大阪の社会部の記者だった樋田さんは事件解明のための「特命」取材班に指名される。まだ解明できずにいるが、樋田さんは、今後も「生きているあいだ、動けるあいだは、必ず、追い続けて真相にたどりつきます」と言い切るのだった。

 この番組は私にとって感慨深いものだった。先月久しぶりに再会した大学時代のサークルの旧友Hから番組を観るように案内されていた。Hは番組の主人公の樋田さんと共通の友人である。
 樋田毅さんは私と大学で1972年入学の同学年。早大に入学した年に起きた「川口大三郎君虐殺事件」のあとに巻き起こった民主化闘争の「英雄」だった。
 文学部自治会を牛耳る革マル派は、文学部キャンパスで川口君を拉致、リンチして殺害。遺体を東大病院前に遺棄した。大学生がキャンパスで虐殺されるという異常事態を前に、早大生は革マルの暴力支配にはじめて声をあげ、革マルに私物化され資金源になっている自治会を自分たちの手に奪還すべく立ち上がった。「第三次早大闘争」と呼ばれる歴史的闘争で先頭に立ったのが樋田さんだった。結果、革マルの第一文学部自治会執行部はリコールされ、学生の圧倒的な支持を受けて、樋田さんが新たに委員長に選出される。ヒゲをたくわえた彼は「ヒゲの委員長」として人気だった。マイクを握って熱っぽく訴える小柄な樋田さんの姿は今も記憶に残っている。
 Hは樋田さんのクラスメートで親しく、Hの下宿で樋田さんと酒を飲んで語り合ったことを覚えている。私は別の学部で革マルと闘っていたから、樋田さんはある意味「同志」だった。彼が組織に属さずに、文学部自治会のトップという革マル派から最も憎まれる危険な役割を引き受けた勇気を尊敬していた。
 その後、キャンパスは再び革マル派が暴力で支配する反動の時代になり、樋田さんは革マル派に襲われ、両足を骨折する大怪我を負い、大学に来れなくなった。その後の消息が気になっていたが、卒業後、人づてに朝日新聞の記者になったことを知った。

  朝日新聞では、新入社員全員が阪神支局でこの事件に関する研修を受ける。番組では、講師である樋田さんが模造銃を手に、詳しく犯行の様子や犯人像について語る様子を見せていた。そして、3時間を超える講義の最後を、樋田さんは声を詰まらせながらこう締めくくった。
 赤報隊は、すべての朝日社員に死刑を言い渡しており、小尻記者に対して本当に実行したのです。殺された小尻記者に向けられた銃弾は、我々朝日新聞記者の一人ひとりに向けられたものだという言い方もできます。
  朝日新聞社は、30年前に『赤報隊』に襲われた新聞社であること、そして、『赤報隊』の正体を追い続けてきた多数の記者がいた新聞社であることに矜持を持っていただきたい。矜持というのは、他人に見せびらかすものではなく、心の中にひそかにもつ誇りです。」
 彼の生き方がそのまま出た言葉であろう。

 川口君事件も、自由を封殺する理不尽な殺害であり、正義を求めてまっしぐらに進んでいた当時の樋田さんの姿が現在の彼とダブって見えるような気がした。一途で不退転の人である。
(つづく)

赤報隊朝日新聞阪神支局襲撃事件
 1987年5月3日、午後8時15分、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に、散弾銃を持った男が侵入し、2階編集室にいた29歳記者と42歳記者に向け発砲した。29歳記者は翌5月4日に死亡、42歳記者は右手の小指と薬指を失った。犯人は現場にいたもう1人の25歳記者には発砲せずに逃走した。勤務中の記者が襲われ、死亡するのは、日本の言論史上初めてであった。(Wikipediaより)


川口大三郎
 1971年4月早稲田大学第一文学部入学。部落解放運動などに参加していた。第一文学部自治会執行部を握る革マル派に失望し、1972年頃中核派に近づき同派の集会などに参加するが、まもなく中核派にも失望し、その感想を級友や母親に語っていた。早稲田学生新聞(勝共連合系学内新聞、現在は廃刊)など右派系学生団体や早稲田精神昂揚会とも接触があった。中核派は、「全学連戦士・川口大三郎同志」などと述べたが、実際には中核派とはほとんど関係なかった。
1972年11月8日、早稲田大学を支配していた革マル派は、川口大三郎を中核派と誤認して同日午後2時頃同文学部キャンパスで学生自治会室に拉致し、約8時間にわたるリンチを加えて殺害した(享年20)。革マル派は、遺体を東大構内・東大付属病院前に遺棄した。遺体はパジャマ姿だった。「死因は、丸太や角材でめちゃくちゃに強打され、体全体が細胞破壊を起こしてショック死」(朝日新聞1972年11月10日朝刊)したもので、「体の打撲傷の跡は四十カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった」(同)という凄惨なものであった
遺体は翌日発見され、革マル派は殺害を正当化する犯行声明を発表した。
これを機に早稲田大学では全学的な革マル派および革マル派と癒着する大学当局糾弾の動きが沸き起こり、革マル派は追いつめられる。革マル派全学連委員長馬場素明は、責任をとって全学連委員長を辞任し、「徹底的に自己批判し、深く反省する」と訴えた。だが学生の怒りは収まらず、革マル派糾弾・抗議集会が続き、1972年11月28日第一文学部学生大会を皮切りに理工学部を除く各学部で学生大会が行われ、革マル派自治会執行部がリコールされ、自治会再建をめざす臨時執行部が選出された。1973年には大学総長に対する大衆団交などが行われた(第3次早大闘争)。(Wikipedia