覚りへの道4-覚りはあるか

「覚り」について考えようとするとき、まず問題となるのは、そもそも「覚り」などというものはあるのか、である。そして、生身の人間(とりもなおさず私のことだが)が覚ることは可能なのか。
こういうイロハからはじめなければならないのは、私は「そっちの方面」には全く疎い人間だったからだ。
私は、子どものころからどの宗教にも強い影響を受けないで育った。小学校のとき、近くのお寺に算盤を習いに行き、お経を唱えさせられたことはあった。また、高校のとき「聖書に興味はありますか」と近づいてきたクリーンカットの白人二人組に連れ込まれたモルモン教のアジトで数ヶ月英会話を習ったことはあった。
大学からは共産主義者だったので「宗教は阿片」だと思っていた。(もっとも、この言葉は誤解されている。「阿片」とは毒物という意味ではなく、痛みを和らげる鎮痛剤という意味で、人々を苦しみの真の原因が社会矛盾だということに気づかせないという点で批判したのだった。だからマルクスは「宗教は、逆境に悩める者のため息であり・・・民衆の阿片である」と「阿片」を「ため息」と並べたのだった。閑話休題
そういうわけで、そもそも《覚りというものはあるのか》《人は覚れるのか》ということから検証していきたい。
この問題を最初に意識したのはタイに住んでいたころだった。
小乗仏教(大乗=マハヤナに対する小乗=ヒナヤナは蔑称だとして、最近は「上座部」=テーラワーダと言い換えることが多いが、ここでは「小乗」のままとする)のタイでは、ほとんどの男子は一度は得度する。だから、ものすごい数の僧侶がいる。ただ、これは覚りのためというより、自らと親の来世のために「徳を積む」行為と見られている。タイならどの町でも見られる、托鉢の僧に供物を捧げる行為も「徳を積む」ことになるとされる。
ただ、覚りを目指して修行する僧はいる。お坊さんの真面目さという点からいうと、日本よりはるかに上だろう。小乗の瞑想法として日本でも知られるようになったヴィパッサナーなど瞑想体系もきちんと持っているようだ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3
16〜17年前のこと、タイで黄色の袈裟を着た日本人と知り合いになった。30歳そこそこの男で、覚りたいと得度したのだという。
彼のお寺を訪ねていったことがある。バンコクから車で半日かかって着いたそこは、とんでもない田舎の森の中の僧院だった。彼は個人用の小さな庵で時間の許す限り瞑想していた。瞑想は実に楽しいと彼は言う。
「で、どう、覚れそう?」と私が聞いた。
「うーん、わからない。でも、実際に覚っている人はいるようだよ。」
そう彼は言って、二人の名前を挙げた。私には初めての名前で、しっかりメモを取った。クリシュナムルティとオショウ・ラジニーシだった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6
彼が本気で覚りを目指している姿に感じるものがあり、調べてみようかという好奇心を刺激された。(なお現在のところ、クリシュナムルティは「本物」のように思われるが、吉本ばなな喜多郎が心酔したオショウが「覚者」なのかについては疑問である。教団内部からの告発としてヒュー・ミルン『ラジニーシ・堕ちた神―多国籍新宗教のバビロン』がある)
次のターニングポイントは、今から15年ほど前のチベット密教との出会いだった。
バンコク特派員だった私は、当時所属していた会社の東京本社からダライラマとインドのチベット人コミュニティの取材を命じられた。私は大学時代、「中国研究会」というサークルに入り、チベットは中国の一部とばかり思っていた人間である。ダライラマについてもよく知らないし、現地で取材する儀式や僧院での修行もチベット仏教の基本的な知識もないまま取材に向かった。http://d.hatena.ne.jp/takase22/searchdiary?word=%a5%ab%a1%bc%a5%e9%a5%c1%a5%e3%a5%af%a5%e9
仕方なくにわか勉強した。すると、チベット仏教の修行は明確に覚りを目指すものだとわかった。亡命政府のあるダラムサラで私の取材の世話をしてくれた通訳のチベット人に聞いた。
「実際に覚った人はいますか?」
すると彼はためらいなく、私の知らないチベット僧の名前を数人立て続けに挙げた。その中には、亡くなった人も今生きている人もいるという。そばにいた人々が話に加わってきて「ほら、○○様も覚っていたよ」と付け加える。チベットでは生身の人が覚るということは珍しくないのだという。
(つづく)