チェルノブイリが私を自由にした

先週、歩数計(万歩計)を買って、毎日計っている。
 こないだ大腸からがん細胞がでてきた。http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160218
 それで、酒飲むわ煙草吸うわ徹夜するわ、体に良いこと一つもしてないのは、さすがにまずいんじゃないかと改心した。
 使い出すと、歩いた結果をチェックするというより、歩数計の数字を稼ぐために歩くということに・・・。エスカレーターに乗らずに階段を上り、歩数計を見てにんまりしている。
 きょうは寒かったが、午後から買い物がてら散歩。1万2千歩、よし!

団地にコブシが咲いていた。
公園のヒマヤラスギを下から見上げて深呼吸。
 大木に触って、この木は昔々、どんな景色を見てきたのか、などと思うのは楽しい。

・・・・・・・・
チェルノブイリの祈り』などの著者、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが去年のノーベル文学賞を受賞したが、その受賞記念講演を読んだ。(『世界』3月号)
 読みながら、考えさせられて、ときどき止まってしまう文章があるが、これがそうだった。

タイトルは「負け戦」。
これは、スターリン時代に17年間収容所に送られたソ連の詩人・作家のワルラム・シャラーモフの「私は、人類を本当に変革しようという闘い、大いなる負け戦に参戦していた」という言葉からとったもの。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチはこう言う。
これまでの5冊の本は、《合わせて1冊の本になるような気がします。あるユートピアの歴史についての本》。
《私はこの負け戦の歴史を、その勝利も敗北も含めて再現しようとしているのです。どれほど「天の王国」を地上に打ち立てたがったことか!太陽の町を!ところが、その結果どうなったかと言えば血の海となり、何百万人という人の命が踏みにじられました。しかし、20世紀のいかなる政治思想も、共産主義(およびその象徴であるところの十月革命)とは比べものにならず、西欧知識人や世界中の人々を共産主義ほど強く鮮やかに惹きつけませんでした。レイモン・アロンがロシア革命を「知識人たちのアヘン」と呼んでいます。》
アフガニスタンに続いてチェルノブイリが私たちを自由な人間にした》という彼女にとっては、共産主義とそこで生きた自分を含む人間たちをどう捉えなおすかが大きなテーマだというのである。
そのさい、「大きな歴史」が見逃したり見下したりする、「小さな人」の「小さな物語」に彼女は耳を澄ます。するとそれは「大きな物語」にも触れてくるという。
ナチズムなど右の全体主義よりも、ソ連、中国、カンボジア共産主義運動など左の全体主義の方が、はるかに多くの人々を死に追いやり、社会に惨禍をもたらしたことは明らかで、共産主義の歴史的検証はこれからも必要だと私は思う。(『共産主義黒書』(恵雅堂出版)が詳しい)
彼女は、これを一人ひとりの内面を描く文学的なアプローチでやっているのだと理解した。

アフガン戦争取材のためカブールに行ったときのことを振り返った部分が印象的だったので、ちょっと長いが紹介したい。
ここに彼女の故郷のミンスクベラルーシ)の話が出てくるが、ベラルーシでは、第二次世界大戦で、4人に1人が前線やパルチザンで命を落としたという。
アフガニスタンの非戦闘員の一般市民のための病院を看護師らと訪れた。子供たちに玩具やチョコレートやクッキーのプレゼントを持っていった。私はクマのぬいぐるみをを五つほど。病院に到着。長いバラックで、全員、寝具と言えば毛布しかない。子供を抱いた若いアフガニスタン女性がひとり私のほうにやってきて、何か言いたげにした。十年の間にここではだれもが少しロシア語を話せるようになっている。私が子供に玩具をあげると、子供は歯で摑んだ。「どうして歯で?」私が驚いて聞くと、女性は子供の小さな身体から毛布を剥がしてみせた。少年には両手ともなかった。「あんたらロシア人が爆撃したせいだよ」。だれかが私の体を支えた。倒れたからだ・・・。
 わが国の「グラード」ロケットがアフガニスタンの集落を穴だらけの荒れ地に変えてしまったのを私は見た。集落と同じくらい長々と続く墓地にも行った。墓地の真ん中あたりで年とったアフガンの女が泣き叫んでいる。ミンスク郊外の村の光景を思い出した。家に亜鉛の棺が運び込まれたとき、母親が泣きわめいた。それは人間の叫びでも動物の吼え声でもなく・・・カブールの墓地で耳にしたこの声にそっくりだった。
 正直に言えば、私はすぐに自由になったわけではない。自分の本の登場人物たちに誠実に向きあっていたし、彼らも私を信頼してくれていた。ひとりひとりが自分なりの自由への道というものを持っていたのだ。アフガニスタンに行くまで私は「人間の顔をした社会主義」を信じていたけれど、戻ってきたときにはあらゆる幻想から解き放たれていた。父に会ったとき言った。「父さん、許してね。父さんは、共産主義の理想を信じるよう私を育てたでしょ。でも、父さんと母さんがつい最近まで教えていた(私の両親は村の教師だった)ソヴィエトの生徒たちが他人の土地で見も知らぬ人たちを殺しているところを一度でも目にしたら、父さんの言っていたことは何もかも無駄だったってわかるはず。私たち人殺しなのよ、父さん、わかる?」父は泣きだしてしまった。》
 10年にわたり政治・経済的、社会的にソ連を疲弊させたアフガン侵略戦争(1979〜1989年)と、連邦加盟国をロシアから決定的に離反させたチェルノブイリ原発事故(1986年)。これこそが、「ベルリンの壁」崩壊(1989年)にはじまる共産圏の消滅とソ連の解体(1991年)を準備したと私は思うが、彼女の描いた小さな物語はその「大きな物語」に触れてくる。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110711
 ドキュメンタリーのアプローチとしても非常に示唆にとむ。