ルソン島 伯父さんは逝った

「さきの大戦」の終戦記念日には、フィリピンに思いを寄せてしまう。
作家の高橋源一郎氏が、朝日新聞(7月22日)に寄稿した「ルソン島 伯父さんは逝った」を切り抜いていたのを思い出し、読んでみた。伯父さんの戦没地を訪ねる旅をめぐって書かれたものだ。
感じるところの多い文章だったので、その一部を紹介してみたい。

《戦争末期、大本営は「千島―本土―比島の線において背水的決戦を行なう」「捷(しょう)号作戦」を発令した。このうち比島(フィリピン)は「捷一号」作戦の舞台となった。レイテ沖での敗北により海軍が壊滅したまま、大本営ルソン島での決戦の道を選んだ。昭和20年1月9日、ルソン島リンガエン湾に米軍が上陸する。「ルソン決戦」の始まりだ。だが、装備で決定的に劣っていた日本軍は後退をつづけた。その「全滅」の最初期の現場がサンマヌエルだった。
 先月末、わたしは、サンマヌエルの小さな川のほとりにいた。緑の畑と背の低い木々が視界に広がっていた。案内してくれた住民は「このあたりでシゲミ旅団が壊滅した」と教えてくれた。「わたしたちはずっとここで暮らしていた。戦争があって、わたしたちは逃げた。そして、戦争が終わって、また戻った。あのころを知っている人間はもういない」
 米軍は、日本軍の抵抗を押しつぶしながら、ルソン島を少しずつ北上していった。最後の大きな戦い、即(すなわ)ち、日本軍の壊滅は5月、バレテ峠一帯で起こった。ここで、日本軍の組織的な戦いは、事実上終わるのである。
 伯父の戦没地が2カ所あるのは、どこで亡くなったかわからないからだろう。サンマヌエルからバレテ峠にかけてのあらゆる場所で「全滅」が繰り返され、部隊がまるごと消滅していった。だから、事実を伝えることができる者などいなかったのだ。
 ルソン戦に参加し生き延びた阿利莫二は『ルソン戦―死の谷』の中でこう書いている。――「捷一号作戦」のために方面軍のとった「持久拘束戦」は、過酷きわまりないものだった。それは、米軍をルソン島に釘づけにし、本土進攻を遅らせることで「捷三号」本土決戦のために時間をかせぎ、あるいは和平交渉を有利に運ばせようというものだった。このため、死守命令を受けた前線部隊は、「玉砕」も禁じられ、食料弾薬の補給もなく、悲惨な戦闘を続けなければならなかったのだ。
 フィリピン戦に参加した兵力は日本政府の推計で約63万人、死者は約50万人。参加した兵士の80%近くが戦死したのである。
 5月が過ぎても、小さな戦闘はつづいた。「時間をかせぐ」ためだけの、意味のない戦闘で、武器も食料もない兵士たちは次々と餓死・病死していった。「人肉食」が行われたのは、主としてこの時期である。その前に亡くなった伯父は、少しだけ幸せだったのだろうか。
車は山の中のくねった道を通り抜け、少しずつ高度を上げていった。そこは70年前、兵士や若い従軍看護婦たちが飢えて歩き、次々と倒れていった道だったろう。やがて、わたしたちは、一帯を見わたせる高台にたどり着いた。バレテ峠の頂きだ。
 そこには、静かに、十字架をかたどり、あるいは刻んだ二つの慰霊碑と、ことばを刻みこんだ二つの石碑があった。遥(はる)か視界の届く限り、緑の山なみが続いていた。そこがフィリピンだといわれなければ、日本だと思ったかもしれない。目にしみる青い空の下で、慰霊碑は北に向かって、つまり日本に向かって立ち、静かにたたずんでいた。
 わたしは目を閉じ、頭を垂れて、一度も会ったことのない伯父のために、それから帰国することができなかった50万の兵士のために、そして、この戦いで亡くなった、万単位のアメリカ軍兵士と百万人以上ともいわれるフィリピンの人たちのために黙祷(もくとう)をした。黙祷すべき人たちは、他にもいるだろう。だが、あらゆる戦争の死者に黙祷することは不可能なのだ。わたしには、ようやくたどり着いたという思いだけがあった。
 目を閉じている間のことだった。わたしは、異様な感覚に襲われたのである。
 伯父が背後に立ち、黙ってわたしを見つめているような気がしたのだ。恐ろしくはなかった。ただ悲しいだけであった。
 わたしは目を開けた。青と緑に染められた美しい風景が、どこまでも広がっていた。不意に、こんなことを思った。70年前、伯父もまた、どこかこの近くで、この風景を見たのだ。そして、迫り来る確実な死を前にして、自分が存在しないであろう未来、けれども平和に満ちた、その遥か未来の風景を想像したのではなかったろうか。わたしには、それが疑いえない事実であるように思えた。そして、伯父が想像した、平和に満ちた未来とは、いまわたしがいる、この現在のことなのだ。それがどんなに貧しい現在であるにせよ。そのことに気づいた瞬間、そう、ほんとうにその瞬間、わたしは後ろから、伯父に抱きしめられたように思った。そのとき、亡くなった家族たちから託されたわたしの慰霊の旅は終わったのである。
 過去は、わたしたちとは無縁ではなく、単なる思い出の対象なのでもない。「そこ」までたどり着けたなら、わたしたちの現在の意味を教えてくれる場所なのだ。》


この写真は、今年バレテ峠に行った人が撮ったものだが、この山中で、食糧も弾も乏しいなか、兵士らは次々に斃れていった。
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マニラ特派員だったころ、私はさまざまな戦跡を回り、戦史を学ぶなかで、「捷一号作戦」を知った。
「西太平洋方面に対しては敵の来攻に先だち機会を捕捉し極力敵戦力を漸減しその進攻を防止するに努め又手段を尽くして敵情偵知に努む」

「レイテ戦」以降は、戦局を一変する可能性をもつ「決戦」の展望はもはやなかった。敵を消耗させ、本土に近づくのを一日でも遅らせることが目的とされている。
兵士らは、壕を掘り、洞穴に身を潜めて抵抗するが、米軍の掃討作戦に無残にも一方的に殺されていった。悲惨だったのは、戦闘によって死ぬよりも、餓死と体力を失っての病死のほうが圧倒的に多かったことだ。
 「戦争責任」というと、ふつうは戦争を始めた責任をいうが、戦争指揮のひどさによって、不必要に多くの兵士を無駄死にさせることも、別の意味での戦争責任だと思う。
フィリピンで戦跡取材に没頭していたときに、それを強く思った。
(つづく)