戦犯タクマを追って11最終回

 椿タツ子さんがタクマの死を知ったのは、処刑から1ヶ月くらい経ってからでした。
 「とてもショックを受けて、悲しみに沈む日々を過ごしました。その頃、中国人のお金持ちから求婚されていましたが、そのショックから立ち直れず、今の夫と結婚するまで6年かかりました。昔の悲しい思い出を忘れようと努力してきました」と言います。
 また、戦後、「日本人だという理由で、ツバを吐きかけられたこともありました。母の姓に変えて、日本人との関係を隠しました。でも、セント・テレサ・カレッジに入学しようとしたら拒否されました」。その学校は当時、アメリカ人の修道女が経営していたからです。
 タクマの妹のハツ子さんにも会いました。彼の遺品があったら見せてほしいと申し出たら、「戦後すぐに、アメリカ軍の通訳が来て、文書など持って言ったし、残りは母が焼いてしまった」そうです。彼女も母の姓を名乗っていたけれど、タクマの妹だと知られて周りの眼が厳しくなり、住所を移ったりしたそうです。もちろん財産はすべて没収されました。

 ネグロス島日系人のリーダーの諸永初子さんは、高校に入ってからも、クラスで「コラボレーター(対敵協力者)」と呼ばれ、就職の際も、日系人だということで苦労したそうです。ルソン島でもネグロス島でも、戦争の最終局面では、日系人は軍と一緒に山にこもります。兵站が完全に途絶えますから、そこで餓死者が出るほどの状況になります。実は、戦没者50万人の多くは餓えのために亡くなっているのです。
 ネグロス島のバコロド市のスラムに「日本人」がいるというので、探したことがあります。日系人の女性と会うことができましたが、彼女は気がふれていました。戦争中、山中の逃避行で苦労したことがたたったらしいと彼女の知り合いは言いました。残酷な戦争の影を見せ付けられ、言葉もありませんでした。

 この間、厚生省の日系人調査団がフィリピンに来ました。100人くらいの人に直接面接したけれど、日系人だということを証明するものを持っている人はほとんどいませんでした。日本に関係する書類も写真もみな焼いて、息を潜めて戦後を生き延びてきたからです。
 兵士の手記にこんなエピソードが出てきます。日本軍が投降してから収容所まで行く途中で、フィリピン人から「ハポン!パタイ!(日本人は死ね)」と罵られ、時には運ばれていく汽車に向かって、石が投げかけられるばかりか、銃まで撃ち込まれた。そこまでの反日感情の激しさは、ベトナム、タイ、ビルマインドネシアなどでは見られないものです。

 親しくお付き合いしているなかに、かつてフィリピンで戦った日本軍の兵士だった方がいます。その方からこんな話を聞きました。
米軍が反攻してきた戦争の最終盤、日本軍は山の奥へ奥へと移動します。司令部を移動するときには、現地のフィリピン人を労働力として使い、弾薬や物資を運ばせました。当時のフィリピン人の心は、圧倒的に優勢な米軍に傾いていましたから、彼らをこのまま帰せば、移動した先を米軍に知られてしまいます。そこで、彼ら全員を殺したそうです。
 とても温厚で信頼できる方です。この話をたんたんと語る様子から、私は事実だと思いました。
 日本軍がすさまじい数の犠牲を出したことは、フィリピン人の犠牲をも増やすことにつながり、戦後の日本軍への激しい憎しみを生みました。それが、日系人社会に大変な苦労を与えたのです。フィリピンの日系人社会は規模が大きかっただけに、たくさんの人々に悲劇をもたらしました。
 タクマの運命に思いをめぐらし、日系人の視点から見ることで、フィリピンでの戦争をより深く理解できるようになるのではないでしょうか。
(終わり)

 あるサイトで、東地琢磨の妹、初子さんが紹介されている。ずっと連絡を取っていないが、今も健在のようだ。http://www016.upp.so-net.ne.jp/koiwa-iwao/iwao/209/7-kiguchi.html
 タツ子さんとも連絡が切れてしまったがお元気だろうか。