タクマは、バヨンボンの憲兵分隊所属でしたが、ソラノ分遣隊で通訳として働いていました。
そこの元憲兵だった人たちが何人か見つかっていて、河崎さんが話を聞いています。彼らは口をそろえて、タクマは「きわめて優秀な通訳だった」と言っていたそうです。元分隊長の松田さん(山形県余目在住)は「もし日本軍が勝っていたら、金鵄勲章ものだった」とまで誉めていたそうです。日本語、英語、タガログ語、イロカノ語ができ、通訳として優れていただけでなく、非常に責任感が旺盛で、兵士に率先して戦闘場所に飛び込んでいく勇敢さもあった。また、ゲリラ容疑のフィリピン人が処刑されそうになった時に彼を助けて、その後自分の手下として情報収集に使ったりもした。かなりやり手だった一面もあります。模範的な愛国青年だったようです。
また、戦後、収容所に入ってから会った人々の証言がいくつかあります。この憲兵分隊で起訴されたのは、タクマと松田分隊長の二人だけで、松田さんは無罪になっています。松田さんはこう言います。
「なぜ彼が処刑されたのか、私自身も全く分かりません。私の推測では、当時、戦況が悪化し、マニラにあった部隊が続々と北部ルソンに避難してきたんです。バヨンボン周辺にも駐屯し、いろんな問題を起こしたんですが、そんなことも憲兵隊の仕業だと見られたんじゃないかと思うんです」。
松田さんはマニラ法廷で調べを受けているとき、タクマに会ったことがあります。そのときタクマは「私は戦犯で調べをうけているが、バヨンボン部隊の責任ある地位の人の名前はいっさい言いませんから、どうか安心してください」と言い、松田さんは彼に「どうもありがとう。是非そういう信念でいってもらいたい」と答えたそうです。
2ヶ月間、同じ収容所の第一幕舎(カンルーバン・キャンプの既決囚の入る所)にいた人が「君はどういう容疑をかけられているのか」と聞いたら、「ゲリラなどの取り調べにあたってのフィリピン人の取り扱いについてだろう。私にはもう肉親もいないが、憲兵さんの中には肉親のいる人もたくさんいるし、私が責任をかぶってもいい」というふうに言ったという話もあります。
また、父親の庄三郎さんが収容所でタクマに偶然会っているのです。日本軍の兵士とともに、現地在住の日本人もみな収容所に入れられていた時期のことですが、そのときの父親の話を、先ほどの河崎さんがまとめているので、引用します。
「収容所の入り口付近で息子とバッタリ出くわした。バギオで徴用されて以来三年半ぶりだ。顔色も悪く、元気がない。マラリアにでも罹っているのではと案じた。つもり話がつきないほどある。でも琢磨は父を避けた。何も言うなという仕草も示した。米兵を気づかいながら『お父さんが帰国するのは分かっている。自分のことはあきらめてくれ。これが最後だろう。帰ったら兄貴によろしく伝えてほしい』とほんの一瞬のうちにこれだけ言うと背を向け、歩き去った」。
(つづく)