きのうは、夕方、早稲田大学へ。
キャンパスがすっきりときれいで拍子抜けする。私たちの時代と違って、立て看板がほとんどないのだ。
世の中、問題山積なのに、学生諸君はどうしたんだ。
早稲田大学に「ジャーナリズム研究所」が設立されるそうで、そのプレイベント「沖縄戦70年 テレビは何を伝えたか」に行ったのだ。
2本のドキュメンタリー番組、NHKの「沖縄の勲章」(1969年)と日本テレビの「ひめゆり戦史―いま問う国家と教育」(1979年)が上映された。
「ひめゆり戦史」では、16~17歳の少女たちがなぜ犠牲になったのかが追求される。
動員された297人中、200人以上が犠牲(この数には諸説ある)になるという悲劇がなぜ引き起こされたのかを問うていく。
ひめゆりの生き残りの証言から、沖縄県立第一高女の校長、西岡一義氏が、女子生徒を戦場に送る先頭に立ちながら、自らは安全な軍本部に逃げ込んで助かったことが分かる。戦後、一度も沖縄を訪ねることもなく、東京学芸大学で定年まで勤め上げ、東京、杉並区で家族と悠々自適の老後をすごしていた。
その西岡氏をディレクターの森口豁(かつ)氏が直撃。責任をただすと、「自分も犠牲者だ」「軍に強制された」と居直る。
では、「32軍」の高級参謀の生き残りを訪ねてインタビュー。というふうに次々に追及していくところが見所だった。
イベントのゲストは森口さん。今年78歳になるというが、今も沖縄問題を訴え続けている。
番組制作当時、日テレの上司から「沖縄だけが酷かったんじゃない。本土だって、空襲や原爆などで大変だったんだ」と暗に沖縄にこだわるのをやめるよう言われたが、「沖縄戦は違う。そこでは、日本軍の銃口が住民に向けられた。戦争の本質が出た戦いだった」と反論したという。
「銃口が住民に向けられた」というのは、実際に投降しようとして銃で撃たれたような場合だけでなく、自決を迫ることをはじめ、住民を死に追いやるいろんな機制が軍によって作られていたことを指すのだろう。
沖縄における日本軍の組織的戦闘が終わったとされるのは、5月24日。そこで司令部が降伏していれば、住民を巻き込まずにすんだはずなのに、敗残兵も住民も戦いを続けさせられた。住民の犠牲者は7〜8割が6月に集中し、6月は「いくさ月」と呼ばれるという。
ひめゆりというと、もう手あかがついたテーマのようだが、イメージだけで実際のところは知らなかったな、と思わされたのが、2007年に公開された映画「ひめゆり」(柴田昌平監督)だった。切り口によって、掘り起し方によって、さまざまに戦争を描く若手のドキュメンタリー監督が出てきているのは楽しみだ。
機会があればぜひご覧になってください。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20070815
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さて、『法治国家崩壊』には、
《1959年12月16日に、日本の最高裁が出したひとつの判決。それによって、二本国憲法が事実上、その機能を停止してしまったこと。米軍の事実上の治外法権を認め、さまざまな人権侵害をもたらす「法的根拠」をつくりだしてしまったこと。そしてその裁判は、実は最初から最後まで、アメリカ政府の意を受けた駐日アメリカ大使のシナリオどおりに進行していたこと》が書かれてある。
この意味で、砂川判決は、「超」がつく重大事件だ。
本の著者は、これがすぎてしまった歴史ではなく、日本がまともな法治国家になり基本的人権が十全に保障されるようになるには、放置できない問題だと訴えるが、そのとおりだと思った。自分の不勉強を恥じた。
では、この判決は、政府がいうように「集団的自衛権の行使を否定していない」論拠になるのか。
もちろん、ならない。「牽強付会」とはこういうことを言う。
裁判の争点は、在日米軍が第9条2項の「戦力」にあたるのか否かだった。日本の集団的自衛権の有無には全く触れていない。
しかも、「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」などと勇ましく「独立」をぶち上げる今の内閣が、徹頭徹尾、米政府に追従した屈辱的な砂川判決を持ち上げるとはどういうことか。
(つづく