6月23日は沖縄慰霊の日だった。1945年のこの日、沖縄での組織的な戦闘が終わったとされる。
テレ朝の「報道ステーション」はこの日、平和祈念公園から大越キャスターの中継リポートを含む約20分の特集。今年の追悼式は、4年ぶりに「制限解除」され多くの一般参列者があったという。
「平和の礎(いしじ)」には、兵士も民間人も国籍を問うことなく24万人の犠牲者の名前を刻まれているが、あらたに判明した犠牲者は毎年、追加刻銘される。沖縄戦の悲惨とその後の混乱により、未だに刻銘されていない死者もあるのだ。
今年は365柱が追加刻銘されたという。
大越キャスターは「平和の礎は現在進行形です」とリポートした。
ETV特集の「置き去りにされた子供~沖縄戦争孤児の戦後」には、沖縄戦で親を亡くし、混乱のなか生き別れた兄弟などの肉親をいまも探し続ける人々が登場していた。
戸籍もなくホームレスになって一人でひっそりと亡くなった人もいる。戦後の境遇があまりにつらく、精神に異常をきたした人も多い。戦後の復興のなかで、彼ら彼女らは行政からも見捨てられてきた。厚労省によると、戦争孤児は12万3511人となっているが、この数には沖縄の孤児は入っていないという。「棄民」という言葉が頭に浮かぶ。
TBS「報道特集」は1週前の17日、「戦後78年 慰霊はどうあるべきか」という特集を放送した。これには考えさせされた。
沖縄本島最南端の摩文仁(まぶに)の丘は、追い込まれた日本軍が司令部を移し、司令官が自決した沖縄戦の終焉の地だ。日本軍が南部に撤退したことで多大な住民被害をもたらした。ガマと呼ばれる洞窟に隠れていた住民が兵士に追いだされて銃火にさらされ、軍隊は住民を守らないとの不信、恨みが後々まで残った。
1965年、佐藤栄作が首相として戦後初めて沖縄に訪問し、その年、戦跡が政府立公園、今の国定公園に指定された。「鉄の暴風」と形容された激しい米軍の砲爆撃で荒れ果てた摩文仁の丘に慰霊塔建設ラッシュが起き、「慰霊塔団地」などと揶揄された。
そこには32の道府県のモニュメントが競うように建てられたが、それは戦前の価値観に染め上げられ、「崇高なる死」「大東亜戦争の英霊」「栄光」などの言葉が刻み込まれた。戦争の実相よりも忠実な兵士への顕彰だった。
米軍統治下ながらとても貧しい生活をしていた沖縄で「観光」がはじまった。本土から遺族会の慰霊団を受け入れることになったのだ。元参院議員の糸数慶子さんは、当時バスガイドだった。
「犠牲の側面より国のために命をかけて戦って、ここまで追い詰められて亡くなったんだと説明した」
「勇猛」、「敢闘」、「奮戦せり」と殉国美談の説明が求められた。摩文仁の丘の頂上に牛島満司令官と長勇参謀長が祀られた「黎明の塔」があるが、そこでは「二人は別れの盃を交わし牛、島司令官が『私が先に逝く』と言葉を残し、白い布の上で愛刀をもって腹を十文字にかっさばいて割腹してお亡くなりになったようです」と語った。あるバス会社のシナリオでは、「古武士の型にならった見事な最期だった」と伝えている。
糸数さんは、「なぜ私たちの案内の中に、住民の話が全く語られないんだろう」という疑問を会社にぶつけたことがあるという。疑問をもったきっかけは、元ひめゆり学徒にかけられた言葉だった。
「あなたの説明はていねいで分かりやすいけど、間違っているよ。戦場に駆り出された人たちの本音を語っていないよね」
その後、糸数さんは、軍隊本位の戦跡案内をあらため、住民の視点に立った戦跡ガイドに踏み切った。
沖縄の住民が、戦争の実相を語り出すのは1970年代に入ってからのことだった。
(つづく)