慰霊とはどうあるべきか

 6月23日は沖縄慰霊の日だった。1945年のこの日、沖縄での組織的な戦闘が終わったとされる。

 テレ朝の報道ステーションはこの日、平和祈念公園から大越キャスターの中継リポートを含む約20分の特集。今年の追悼式は、4年ぶりに「制限解除」され多くの一般参列者があったという。

平和祈念公園報ステより)

 

玉城デニー知事(報ステより)

 「平和の礎(いしじ)」には、兵士も民間人も国籍を問うことなく24万人の犠牲者の名前を刻まれているが、あらたに判明した犠牲者は毎年、追加刻銘される沖縄戦の悲惨とその後の混乱により、未だに刻銘されていない死者もあるのだ。

宮里幸正さん(86)の叔父の渡慶次芳雄さん(座間味出身)の戦死が判明して今年追加刻銘された。

追加刻銘されたコリアン(筆者撮影2022年1月)

 今年は365柱が追加刻銘されたという。

 大越キャスターは「平和の礎は現在進行形です」とリポートした。

 

 ETV特集の「置き去りにされた子供~沖縄戦争孤児の戦後」には、沖縄戦で親を亡くし、混乱のなか生き別れた兄弟などの肉親をいまも探し続ける人々が登場していた。

生き別れた姉と祖母を今も探す照屋ミサ子さん(81)(EYV特集より)

 戸籍もなくホームレスになって一人でひっそりと亡くなった人もいる。戦後の境遇があまりにつらく、精神に異常をきたした人も多い。戦後の復興のなかで、彼ら彼女らは行政からも見捨てられてきた。厚労省によると、戦争孤児は12万3511人となっているが、この数には沖縄の孤児は入っていないという。「棄民」という言葉が頭に浮かぶ。

 

 TBS「報道特集は1週前の17日、「戦後78年 慰霊はどうあるべきか」という特集を放送した。これには考えさせされた。

 沖縄本島最南端の摩文仁(まぶに)の丘は、追い込まれた日本軍が司令部を移し、司令官が自決した沖縄戦の終焉の地だ日本軍が南部に撤退したことで多大な住民被害をもたらした。ガマと呼ばれる洞窟に隠れていた住民が兵士に追いだされて銃火にさらされ、軍隊は住民を守らないとの不信、恨みが後々まで残った。

 1965年、佐藤栄作が首相として戦後初めて沖縄に訪問し、その年、戦跡が政府立公園、今の国定公園に指定された。「鉄の暴風」と形容された激しい米軍の砲爆撃で荒れ果てた摩文仁の丘に慰霊塔建設ラッシュが起き、「慰霊塔団地」などと揶揄された。

荒れ果てた摩文仁の丘(報道特集より)

60年代に慰霊碑建設ラッシュが起きる(報道特集より)

 そこには32の道府県のモニュメントが競うように建てられたが、それは戦前の価値観に染め上げられ、「崇高なる死」「大東亜戦争の英霊」「栄光」などの言葉が刻み込まれた。戦争の実相よりも忠実な兵士への顕彰だった。

各県の慰霊碑が並ぶ。右から大分県奈良県、北海道(筆者撮影2022年1月)


 米軍統治下ながらとても貧しい生活をしていた沖縄で「観光」がはじまった。本土から遺族会の慰霊団を受け入れることになったのだ。参院議員の糸数慶子さんは、当時バスガイドだった。

糸数慶子さん(報道特集より)

バスガイド時代の糸数さん(報道特集より)


 「犠牲の側面より国のために命をかけて戦って、ここまで追い詰められて亡くなったんだと説明した」

 「勇猛」、「敢闘」、「奮戦せり」と殉国美談の説明が求められた。摩文仁の丘の頂上に牛島満司令官と長勇参謀長が祀られた「黎明の塔」があるが、そこでは「二人は別れの盃を交わし牛、島司令官が『私が先に逝く』と言葉を残し、白い布の上で愛刀をもって腹を十文字にかっさばいて割腹してお亡くなりになったようです」と語った。あるバス会社のシナリオでは、「古武士の型にならった見事な最期だった」と伝えている。

 糸数さんは、「なぜ私たちの案内の中に、住民の話が全く語られないんだろう」という疑問を会社にぶつけたことがあるという。疑問をもったきっかけは、元ひめゆり学徒にかけられた言葉だった。
 「あなたの説明はていねいで分かりやすいけど、間違っているよ。戦場に駆り出された人たちの本音を語っていないよね」

ひめゆりの塔(筆者撮影2022年1月)

ひめゆり学徒が隠れていたガマ(筆者撮影2022年1月)

 その後、糸数さんは、軍隊本位の戦跡案内をあらため、住民の視点に立った戦跡ガイドに踏み切った。

 沖縄の住民が、戦争の実相を語り出すのは1970年代に入ってからのことだった。
(つづく)