慰霊とはどうあるべきか2

 沖縄に米軍が上陸し、日本軍が南部へと移動するなか、戦火を避けていた住民が兵士によりガマなどから追いだされるなどして戦場に放り出された。結果、住民の4人に1人が犠牲になる惨状を呈した。

遺骨は地域ごとに祀られた(報道特集17日OAより)

 それらの犠牲者は地区ごとに祀られ、遺骨は骨塚、納骨堂に納められた。ところが、日本政府や琉球政府遺骨を一カ所に集約すると言い出した。反対する村々もあるなか、遺骨はいつのまにか運び出され、最終的に摩文仁の丘に作られた「国立戦没者墓苑」に納められた。住民の遺骨は兵士の戦死をたたえる殉国の丘に同居することになったのだ

遺骨の集約には強い反対も(報道特集より)

国立戦没者墓苑(報道特集より)

 その流れの背景にはある法律があった。「戦病没者遺族等援護法」。戦死者の遺族などへの年金支給の法律が、占領下の沖縄にも適用されると、その後、対象は軍人・軍属だけでなく民間人の犠牲者に広がった。国は「亡くなった住民」を「戦闘参加者」として遺族が援護金を申請する仕組みを作った。

 例えば「壕を追い出された」のは、「壕を提供した」ことに、強制集団死やスパイ容疑での虐殺も軍の機密を守るためだったことにして、0歳児まで軍に協力した戦闘参加者として申請させ、遺族に援護金が支払われていった。

壕を追い出されて亡くなった住民は「壕の提供」とされた(報道特集より)

 死の理由が書き換えられてできた戦闘参加者の名簿は、厚生省から靖国神社に提供され、一般住民が軍人軍属と同じように合祀された。こうして住民の犠牲は国に殉じた死に囲い込まれる形となった。

ひめゆり学徒たちや民間人も靖国神社に合祀されている(報道特集より)

 沖縄国際大学名誉教授の石原昌家さんは、これを事実を歪曲した「靖国化」だという。

石原名誉教授(報道特集より)

 「見事にからめとっていってるわけですね。援護法で軍民一体の適用を受けたらもう一般住民はいないんですよ。すべて戦闘参加者でね。そういう流れの中で具体的な形として沖縄戦没者墓苑が出来上がってしまったと。まさにこれは靖国靖国を象徴するような形になってしまってるわけですね」

 1995年、摩文仁の丘の北に「平和の礎」を建てたのが、当時の沖縄県知事大田昌秀さんだ。大田さんにとって最も大事だというのが、摩文仁の丘の麓の動員された少年兵を慰霊する健児の塔だ。太田さんの同級生の名前が刻まれている。

 「なぜ自分が生き残ってるか、自分はある意味で生かされてるんじゃないか、その生きてる意味は何だって考えざるを得ない。学友たちの死ぬのを目の前で見ていたから、この慰霊をするのが自分の生かされた意味ではないか。死者たちの霊を弔って二度と再び沖縄を戦場にさせないと」

報道特集より)

太田元知事(報道特集より)

 そして、ここでのある体験が平和の礎を生んだ。

 「お父さん、お母さんたちがやって来てこの自分の息子の名前をたった一行をなぞって、朝来て涙流しながら夕方まで座り込んでるわけですよ、それを見て、たった一行の名前がこの人がこの世に生きていたんだという唯一の証拠だっていうことで、平和の礎を作って全沖縄の犠牲者の名前を刻んだわけですよ」

平和の礎(筆者撮影2022年1月)

 石原教授は、平和の礎刻銘検討委員会の座長を務めた。

 「戦場の状態を表すという形で、白骨累々たる状況を名前で持って表すと。遺骨の代替物として全戦没者を刻銘するという。軍隊中心の慰霊の塔と住民と一個人中心の平和の礎。それをどう見ていくかは沖縄は今ものすごく問われている状況だと思う」

 

 沖縄戦の実相を捻じ曲げて、犠牲者の慰霊を「靖国化」してきた本土。我々本土の人間はこの点でも沖縄の心を踏みにじってきたのだと反省させられる。
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 先日、近所のシニアの会で「イチからわかる環境問題」という話をしてきた。

かなり力を入れて講演した

 今の地域に住んで20年近いが、どういう人が近所に住んでいるかよく知らない。これからもっと地域に関わっていくつもりだが、手始めにシニアたちにお近づきになろうとしている。そのうち若い衆とも仲良くなりたい。