ミナマタを観た連休

takase222014-05-04

きのう3日、池袋の「床屋ギャラリー」で桑原史成さんの写真展に行った。
ここは小さな床屋のスペースで、週末だけ場所を提供している。
http://tokoyagallery.blogspot.jp/
今年の第33回土門拳賞に桑原史成さんが選ばれ、これから各地で受賞記念写真展が予定されているが、床屋ギャラリーがそれに先駆けて展示会を開いたのだ。
あいにく桑原さんはおらず、挨拶できなかったが、賞の対象になった写真集「水俣事件」をゆっくり観ることができた。
桑原史成といえば、故郷の島根県津和野に写真美術館もある大家で、私は、受賞のニュースを知って「えっ、まだ受賞していなかったのか?」と意外だった。
1936年生まれ。最高齢受賞者だそうだ。
おめでとうございます。
たしか30年近く前、ベトナムハノイでたまたまお会いしたのが最初だった。90年前後には、サハリンの残留朝鮮人の取材でご一緒した。
先輩風をふかさずに、誰にも優しく接してくれる気さくな人である。いつも笑顔を絶やさない桑原さんだが、二人で飲んでいたとき、問わず語りに「私の人生はね、汗と涙がいっぱいの人生でしたよ」とつぶやくように言ったのを覚えている。
桑原さんの水俣の写真といえば、代表作に「二十歳の智子と父親」(1977年)がある。成人式の晴れ着をまとった先天性水俣病の娘さんを親族が囲んで祝っている。
http://www.kmopa.com/archive/minamata/minamata.htm
一度見たら忘れられない衝撃的な写真である。私は恐怖感さえおぼえた。
晴れ着を着た智子さんは何を感じているのか、親族の笑顔の裏にあるものは何か、この写真の撮影を許されるまでどれだけの葛藤があったのか、また桑原さんはどんな気持ちでシャッターを押したのか・・・
すべてが想像を絶する。
映画監督の原一男が、桑原さんは光と影の使い方が絶妙だと評していたが、この写真にもそれは言えるだろう。
・・・・・
そしてきょうは新潟県阿賀野市に行ってきた。
映画『阿賀に生きる』22周年の2014年追悼集会「阿賀の岸辺にて」という催しがあったのだ。
阿賀に生きる』は、「新潟水俣病という社会的なテーマを根底に据えながらも、そこからはみ出す人間の命の賛歌をまるごと収め、世界中に大きな感動を与え」た作品だ。
若い人は知らないかもしれないが、水俣病には、熊本県チッソという会社が起こした「熊本水俣病」と新潟県昭和電工が起こした「新潟水俣病」(または「第二水俣病」)がある。
監督の佐藤真はじめ全員映画を作るのは初めてというスタッフ7人が、阿賀野川流域の一軒家で共同生活しながら撮影、編集した。資金は全国の千数百人からの寄付でまかなったが、スタッフは月2万円という生活費で、住民からの差し入れで食いつないだという。
できあがった映画は高く評価され、国際的な賞をいくつも取って、日本のドキュメンタリー映画に新しい地平を拓いたといわれている。
http://kasamafilm.com/aga/news/
佐藤監督は5年前に49歳で亡くなったが、驚くことに、この映画にはファンクラブがあり、毎年集まりを持って、映画を上映し、その現在における意味を語り合っているのだ。今年も100人を優に超える参加者がいた。前列のほうには、映画作りに協力した地域の人々がたくさん詰めかけ、和気あいあいの雰囲気。映画上映中も、その後の挨拶やシンポジウムでも笑いが絶えなかった。
「冥土連若衆」という若者グループもあって、映画を阿賀野川の河口から上流へと上映していく「阿賀野川遡上計画」なるものをやっている。
映画を中心にしたユニークなコミュニティが成立していることに感銘を受けた。
私は仕事があるので夕方帰路についたが、参加者の多くは、今夜は近くの温泉で大宴会を繰り広げているようだ。
https://twitter.com/aganiikiru/status/462918665860423680/photo/1
奇しくも、きのう今日と二日続けて「水俣」に関係することが続いた。こういうのは、今は偶然に見えても、あとで意味を持ってくるかもしれない。