上海窃盗団にチョコをとられた話

takase222013-02-18

12日から17日まで海外に出張していた。
1週間近い出張は、一昨年の原発事故直後のチェルノブイリ取材以来。行った先はまだ言えないが、最近激しい戦闘があったところである。
取材中、近くで戦闘はなかったが、ヒヤリとする瞬間はあった。真っ暗な夜の森を手探りで1時間近く歩き、汗だくでヘトヘトになった。不摂生はいけないなと反省した次第。
夜遅くまで、戦闘員や様々な国籍のジャーナリストと酒を飲み、朝はやかましいコケコッコーの声で目が覚める。予算の関係で一人取材だったこともあり、昔々、さかんに紛争地を取材していたころを思い出した。
澄んだ空気の中で、ここ数年で最も美しい朝日と夕陽そして星空を見た。今回が、私にとって最後の紛争地取材になるかもしれないなと思いながら、毎日の出来事を味わった。
この取材については、近く書こう。
・ ・・・・・
きのうの帰路、乗り継ぎは上海で、待ち時間があったのでメシでも食おうと街に出た。
中国は十年以上行ってなかった。誰でも言うことだろうが、変化の激しさには驚かされる。飛行機の窓から見下ろすと、突然、高層アパート群が現れる。十棟以上、数千人は住めそうだ。あたりは一面の畑である。こういうシュールな風景がここそこに見られた。
町を走る車はきれいで、昔の自転車やオンボロ車は姿を消した。ショッピングセンターもオフィスも新築でピカピカ。地下鉄に乗ると、若者はもとより年配のおばさんまでみなスマートフォンを使いこなしている。空港と中心部を結び、時速300km以上で走るリニアモーターカーにも乗って中国の先進技術も体験できた。
写真は、街角で弾き語りをする女の子。おそろしくヘタで誰も立ち止まらないがめげずにずっと歌い続けていた。これも現代都市的な光景だ。
その上海でちょっとした事故にあった。
街を歩いていると、二十代半ばくらいの女の子二人が、英語で「写真を撮ってもらえますか」と近づいてきた。
シャッターを押してあげると、「アーユーチャイニーズ?」と聞かれた。日本人だとわかると、ニコニコうれしそうに「私は日本語を勉強して少し話せます。コンニチハ」と言う。
二人は、田舎から上海に遊びにきたのだという。そろそろ空港に向かおうとおもって「サヨナラ」と別れようとすると、「もっと話しましょう」と引き止める。その二人を振り切るように、「急いで空港にいかなくちゃ、さよなら」と手を振って急ぎ足で地下鉄の駅に向かった。しばらくして、右手に持っていた黒いバッグがないことに気がついた。
はて、どこに置き忘れたのか。そのとき、はめられたことにはたと気づいた。
二人の女の子を撮ってあげようとすると、右手に下げていたカバンは自然に歩道に置くことになる。シャッターを押そうとすると二人が後ろに下ったので、顔を大きめに入れてあげようと、一歩二歩前に出た覚えがある。そして、すぐに会話が始まって、そっちに気をとられてしまったようだ。
もっとも、サヨナラと別れたあと、そのバッグの存在を自分も忘れて歩いていたのだから、私の落ち度も大きい。自分ながら、間抜けさに呆れる。
中国の若者がわざわざ外国人にシャッターを押してくれと英語で近づいてくる、それがもうおかしいではないか。
バッグの中に仕事に関係したものを入れていなかったのがラッキーだった。着替えの下着、靴下、セーターなどの衣類と本2冊。一冊は愛読書の『自省録』で、線や書き込みがたくさんあってお気に入りの箇所がすぐにわかったのだが。
また、日本を経つ前の日の晩、横田めぐみさんのご両親と有田芳生さんと一緒に夕食をとったのだが、そこで早紀江さんにバレンタイン・チョコをいただいた。それもバッグに入っていたのは残念だった。
人に対して無警戒なのか、よくこうして騙される。東南アジアで十年暮らして、深刻な事態にならなかったのは幸運というしかない。
きのうは取材も終わって帰国の途についていた気の緩みもあって、簡単にひっかかってしまった。
紛争地では何事もなく、大都会で事故にあったわけである。
今ごろ、あの私の娘ぐらいの女の子たちは、私のバッグに金目のものがないことに悪態をつきながら、日本からはるばる運ばれたチョコを頬張っているのかもしれない。
もう悪いことしちゃだめだよ。