ローマ皇帝、マルクス・アウレーリウスは『自省録』(岩波文庫)で知られる哲人政治家だ。
「5賢帝」の最後の一人だが、帝国はすでに凋落しはじめていた。なにせ、かつてこのブログで書いたように『ローマ帝国の滅亡』という映画にアウレリウスが出てくるのである。
他民族による侵略や属州の反乱、洪水や飢餓、疫病の流行、政治的内紛と立て続けに難問が押し寄せた。
塩野七生も「マルクス・アウレリウスの19年にわたる治世は、よくもここまであらゆることが同時に火を噴いたものだと、気の毒に思うほど多難な治世になる」と書いている。(『ローマ人の物語11−終わりの始まり』p128)
個人生活でも、多くの子どもたちが若くして死亡するなど苦難の中を生きた。
その中で自分を見つめながら「指導理性」にかなった生き方をしようと書き綴った日記が『自省録』である。まさに実際に「生きられた思想」であり、どんなひどい状況でもさわやかに生き抜くヒントとして、とても役に立つ。
私が師事している岡野守也先生は、彼の以下の言葉を墓碑銘に選んだという。
《おお、宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。汝にとって時をえたものならば、私にとって一つとして早すぎるものも遅すぎるものもない。
おお自然よ、すべて汝のもたらすものは私にとって果実である。すべてのものは汝から来り、汝において存在し、汝へ帰っていく》
http://blog.goo.ne.jp/smgrh1992/e/d3701bf31b6ff854f8a17a2c5ec9ad29
事は起きるべくして起きる。すべては宇宙の采配なのだ―
国家の指導者は、「死んでくれ」と命じる可能性があるのだから、もちろん自分は命を賭ける覚悟でいなければならないはずである。ところが、ここ数年の日本の首相たちは、「いやになったから」という理由でつぎつぎに辞めていった。情けない。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20080915
アウレリウスは「死」についてたびたび思索をめぐらしたが、つねに死ぬことを安らかに受け入れよ、と言っている。いつ死んでもよいと腹を据えていた。
常に魂の高みを目指していたアウレーリウスが、戦争をどう考えていたかに、前から関心があった。
アウレリウスがゲルマン人と戦っているとき、信頼していた部下の将軍カシウスが、東方のシリアで、自分が皇帝になると宣言し、反乱を起こした。これを知ったアウレリウスは、ドナウ前線で、兵士に以下のように語ったと伝えられる。
《わたしにとっては最も信頼できる友人であったうちの一人が、裏切り行為に走ったことが判明した。これによって生じた危機が、もしも私個人を襲ったのであったならば、わたしは、わたしとカシウスのどちらを選ぶかを、軍団と元老院の意向にまかせたであろう。そして、もしカシウスが選ばれたとすれば、わたしは安らかな気持で、戦闘に訴えることもなく、帝国を彼に譲り渡したであろう。なぜなら、そのほうが、国家と市民のためにより弊害の少ない解決法であるからだ。
しかし、東方の現状は、このまま議論を続けていては国家と市民のためにならないと判断せざるをえないほどに緊迫している。それでわたしは、わたし自身が、この前線にいると同様な危険に立ち向かうほうが、国家と市民のためになるという考えに至った。わたし自身はもはや老いた身であり、体調も充分ではない。痛みなしには食事をとることもかなわず、熟睡も昔の話になってしまった。それでもなお、お前たちの支持を確かめたうえで、断固とした決意でことに対処する気持ちはある》(同上P175)
あくまでも公の利益のためにと訴えた彼のスピーチを、将兵は支持し、西方軍団で動揺を示したところは一個軍団もなかったという。
また、元老院への書簡にはこう書いたという。
《善意をひとかけらももたない人間は存在しないと思い、古き良き時代の徳性もいまだ残っていると考える以上、カシウスがわれわれの期待を裏切ったことは明らかでも、彼個人を侮辱し、恥辱を与える言葉が浮かんでこないのである》
元老院は満場一致でカシウスを「国家の敵」と断じたのだった。
優柔不断なのではない、これらの言葉のうらには、揺るがない「覚悟」があった。覚悟をもった指導者は出てこないか。