宇宙的スケールで生き、死ぬ

11月か。
もう年賀状が売り出されているそうな。時間のなんとはやいこと・・


先週末、山形から仙台、南三陸と回ったが、風が冷たく、暖房を入れていた。
仙山線で仙台に抜ける途中、奥羽山脈の紅葉を見ることができた。
写真は山寺と車窓。紅葉はもうちょっとでピークだろう。

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実は山形に行ったのは、先週、いとこがくも膜下出血で急死したためだ。
母の妹にあたる叔母の一人息子で、50歳ちょうど。子どもが二人いて、高校と中学に通っている。
こういう場合、まだまだ多くのことをやり残し、子どもも成人前で、「さぞや無念だったことでしょう」と言う人がいるが、どうなんだろう。違和感を感じる。

通夜の席で、叔母に献杯あいさつを指名されたので、普段思っていることをお話させていただいた。
同じ花でも、早く散ってしまうもの、長く咲き続けるもの、中には蕾のうちに動物に食われてしまうのもあるだろう。しかし、どれもその生を全うしたのではないか。
生きた時間の長短ではない。50歳は今の日本では若いが、人生を全うしたことには変わりない、と。

マルクス・アウレリウス『自省録』に人生の幕を下ろす話がある。
《人よ、君はこの大いなる国家(ポリス)の国民として働いた。それが五年間か百年間か、君に何の違いがあるだろう。というのは、この国の法によって課せられるものは万人に平等なのだ。暴君でも不正な裁判官でもなく、君をこの国に連れてきたその自然の手で、君がこの国から追放されるのだとしたら、何の恐れることがあろう。それはちょうど、喜劇役者を雇った将軍が彼を舞台から解雇するのに似ている。「でも、私は五幕を演じていません。まだ三幕だけです」。そのとおり、だが人生では三幕でも一つの完全な劇になる。それは、終わりを決めるのはほかでもない、かつて君を構成し、現在は君を解体する責任を持った方なのだから。君はそのどちらについても責任はない。だから、満足して去るがいい、君を解雇する方も満足しておられるのだから。

ここで「国家(ポリス)」というのは政治的国家ではなく、この世界=宇宙のこと。
「三幕でお前の役はおしまい」と言われたら、「五幕までやらせてください」とごねることなく、満足して去っていけ。私を「構成」し、「解体」するのを決めるのは私ではなく「将軍」(自然=宇宙)なのだから。人生が五年だろうが百年だろうが、「はい、そこまで」といわれるまで、精一杯役を演じればよいのだ。

アウレリウスは、宇宙的なスケールで、死を心から納得して迎えようとしていた。『自省録』はそれを中心に書かれていると言ってもよいくらいだ。

《おお宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。汝にとって時をえたものならば、私にとって一つとして早すぎるものも遅すぎるものもない。おお自然よ、すべて汝の季節のもたらすものは私にとって果実である。すべてのものは汝から来り、汝において存在し、汝に帰って行く》

すぐに反論が来そうだ。
じゃあ、通り魔から何人も子どもが殺されてもいいんですか!などと。

社会的には犯罪として裁かれるべきだし、痛ましい惨事だ。しかし、もっと深いレベルでいえば、宇宙的にはすべてOKである。そもそも、死とは宇宙に「帰って行く」ことなのだ。
アウレリウスは、常識的な「幸不幸」のものさしを超越してこそ、さわやかに生きることができると言い、実践しようとした。
目標にしたい偉人である。

(『自省録』の訳文は岡野守也『ストイックという思想』(青土社)より引用)