負荷のない人生

takase222011-11-30

25日(金)の夜は、都内のホテルで高校同窓会の大懇親会があり、200人以上が集まった。
(写真は合唱団OBによる合唱)
昔の同期数人でワイワイやる飲み会は行っても、こういう公的な同窓会には縁がなかったのだが、今年はうちの期が幹事になって知ったやつが準備に奔走していいるのを知って、参加しないわけにはいかなくなった。
同窓会として被災地に義援金を贈るというので、会場にDVD『チェルノブイリの今』を持っていって自分で売りまくり、売り上げを寄付した。
ほとんどが卒業以来初めて再会する顔で、中には最後まで誰か分からないやつも。大会社の社長や役員も多かったが、おどろいたのは、某原子力関連機関の幹部になっている同期がいたこと。
「今から思うと、我々も安全に対する考えが甘かった」と言う。
DVDを2枚買ってくれた。帰ってちゃんと観たかな。
懇親会には顔を出さなかった同期のT君から、先日、こんなメールをもらった。
《私の人生は、結婚し、子どもを育て、家を持った。
子ども二人は社会に巣立ち、家内とは別れた。
元々物には執着しない性格も相まって、もう欲しいものは何もない。
「どこも痛くなく、心配事が何もない」のが最高の幸せと思う私。
以前はそうなることが「悠々自適の羨ましい境遇」と思ってた。
以前は、子どもも負荷、家のローンも負荷、負荷がいっぱいあったから、頑張らなきゃと思い、それがモチベーションになって、体が許すかぎり、馬車ウマみたいに働くのもよしと思ってやってきた。毎日が充実していた。
今、負荷がなくなった。私の心の中は「何をして時間を過ごせばいいの?」「無為に過ぎて行く時間がもったいない」です。
ないものねだりなんだろうなあ。貧乏性なんだろうなあ。なんか何もせずに時間が過ぎていくせいか、心に「焦り」があるんだよね》
T君のとても正直な文章に感心した。
このご時勢に「ああ、なんてうらやましい!」と言われるだろう境遇。
月末ごとに資金繰りで頭を悩ませる私なども、ちょっと、こんな立場になってみたいなどと思ってしまう。
でも、T君の心にはむなしさが押し寄せているらしい。
定年を控えて、山登り、アウトドア、料理に蕎麦打ち、仏像鑑賞、絵画、音楽と趣味作りにいそしむ人もいるが、彼はそのタイプではないから余計に悩んでしまうのか。趣味作りも、むなしさを考えないように自分を忙しくさせるものなのだろう。
T君のむなしさは、「充実感のなさ」のようだ。
「充実感」とは、彼の言う「負荷」、義務、責務、(さらには使命)があってはじめて出てくるものなのだろうか。
T君は、「負荷」がなくなって、あとは「楽しさ」を求めて生きるしかなくなっている。
これはけっこう苦しそうだ。
幸せって何、と考えさせられる。