遺伝子に「私」はない

 台風に次ぐ台風で、雨がつづき靴にカビがはえた。
 17日の土曜は、横浜中華街で中学の同期会。幹事として半年前から準備してきたのだが、そのかいあって、楽しんでもらえたようだ。学校も含めてかつて所属した集団には、懐かしさだけでなく、反発やねじれた感情もあり、前は同窓会のような会には参加しなかったのだが、50歳を過ぎたころから出るようになった。
 この歳になると、会は、亡くなった先生、同期生への黙祷ではじまる。もうこれが最後かもしれないと思うと、かつては苦手だったやつも愛おしい感じがする。来年また会えるのか?
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 最近、注目した評論二つ。
 まず、中東問題に詳しい酒井啓子氏の《9.11後の世界〜届かないメッセージ》朝日新聞9月14日付)
 酒井氏は、「9.11以降私たちには見えなくなったものがある」という。
 9.11後、なんでもかんでもテロと呼ばれるようになったが、「テロ」と十把一絡げにされる行動の多くは、かつては民族独立や外国支配に抵抗する「ゲリラ」活動だった。
 「文明」とか「自由世界」とかいったイメージや象徴が標的になり、それを巡る戦い自体も漠然としたものにある。誰が「敵」で誰が狙われているのか、誰が何を獲得したいのかが覆い隠されてしまう。「敵」が曖昧な分、社会には過剰な不安と、他者に対する排除意識がうまれる。
 私たちが「今取り戻さなければいけないのは、9.11後の世界でかき消された、「誰か」による戦いが発するメッセージに心を寄せる想像力かもしれない」と酒井氏は結ぶ。
 そのとおりだと思う。今の学生の多くは「ゲリラ」は気象用語だと思っているというが、たしかに世界の具体的な問題が見えなくなっている。
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 もう一つが、生命誌研究者の中村桂子氏の少子化・・進む生殖医療〜遺伝子に「私」はない》東京新聞9月16日夕刊)
 中村氏は生物研究の立場から、「生きものとは続こうとする存在」であり、生き物はみな次世代へ続くよう懸命に生きており、それを支えるシステムがあるという。イクラもタラコも、無数の卵があってのサケやタラであり、人間の女性一人には、700万個もの卵のもとになる細胞がある。「ここで語る次世代、つまり子どもには《私の》はつかない。人類の子どもたちが続くようにというシステムなのである」。
 少子化も、生殖医療の進化も、いずれも、いのちを続けるという視点からは問題があると中村氏はいう。
 「少子社会の原因となる、子どもに目を向けない生き方は、生き物という姿勢を欠いている」し、「いのちをつなぐという発想のない社会には問題がある」。保育所設置などの当面の施策は必要だが、「社会のありようの根本が変わる必要がある」。
 一方、生殖医療を用い、どんな苦労をしてでも「自分の子ども」を持ちたいという考えには、小さなことへのこだわり過ぎがある。遺伝子に、私の遺伝子などはない。
 結びはこうだ。
 《現代を生きる人間としては、大きく、DNAはすべての人をつなぐものと考えたいと思う。もちろん、おなかを痛めて生まれた子どもには特別の愛情が生まれ、子どもと共に日々を楽しむ家族のありようは大切である。それは前提としたうえでなお、「こどもなどいなくてもよい」でも、「私の子どもにこだわり過ぎる」でもない考え方ができる社会が、人間という独自の生きものがつくる社会なのではないかと思うのである》
 賛成!そのとおり。少子化対策で、保育所を作れば済む話ではない。「子どもなんかいらない」という「社会のありようの根本」が問題なのだ。