大阪の選挙の意味とは2

今回の大阪の選挙を、「独裁」「ハシズム」批判で終わらせるべきではないというのは、ジャーナリストの相川俊英氏だ。
相川氏は、今回の橋下氏の出馬が、地方自治のあり方をクローズアップさせた点に意味を見出している。
氏は、「二重行政」問題がこじれた経緯をこう説く。
大阪府の人口は約886万人(10年10月)で、面積は香川県に次いで狭い。その府域の中心部に人口約267万人の大阪市がドーンと広がっている。2つの大阪が併存するかたちとなり、まさに「両雄ならび立たず」の関係となった。
大阪市は市域。大阪府大阪市域外」という縄張り意識が固定化し、足の引っ張り合いとなった。府と市による「二重行政」や「二元行政」の弊害である。(略)
政令市と道府県の関係はいずこも似たようなもので、「二重行政」や「二元行政」は大阪地域だけの特異な現象とは言えない。さらに、「二重行政」と言えば、国の出先機関都道府県の間にもある。弊害の大きさと広がりでは、こちらの方がより深刻だ。全国共通の現象であるからだ。(略)
市町村制は1888年に導入されたが、すでに大都会となっていた東京と大阪、京都は通常の市制ではなく、府の直轄となった。市長の職務は官選の府知事が務め、大阪市の行政事務は大阪府庁内で行なわれた。
 こうした自治の制限に市民は反発し、一般市制に移行した後も府県からの完全独立を求める「特別市」運動を展開した。完全独立とは、地域内の地方税を市が全て握ることを意味する。(略)
 戦時中に東京府東京市を再編する都制度が特例としてつくられた。しかし、大阪市などはそのままの形で残され、不満を募らせた市民らが特別市運動を継続させた。戦後になり、特別市制度はいったん法制化されたが、今度は府県側が猛反対した。
「大都市部が府県から独立したら、残された他地域が疲弊してしまう」と、懸念したのである。結局、特別市制度は日の目を見ぬままお蔵入りとなり、納得いかない大阪市などをなだめるための暫定措置として、政令市制度が採用された。1956年のことだ。
大阪は、中途半端な制度設計によりムダな行政運営が温存された典型例。(略)
 基礎自治体として強大すぎる大阪市と、広域自治体としては小さすぎる大阪府は互いに相容れず、両者の軋轢とマイナス面だけが膨らんでいった。「府市合わせ」の関係である。つまり、府県と政令市による二重行政の弊害が極限まで進んだのが、大阪地域と言える。
そうした状況下で、おかしな事態が進行している。国(政府)による政令市の粗製乱造である。国(政府)は「平成の大合併」を促進させるため、政令市の基準を人口100万人から70万人に緩和し、政令市昇格を煽ってきた。
 その結果、静岡市浜松市堺市新潟市岡山市相模原市と、まるで雨後のタケノコのように政令市が続々と誕生した。来年4月に仲間入りする熊本市を含めるとその数、20。その多くが「上げ底政令市」である。
 つまり、国(政府)は二重行政の弊害を指摘されている今の大都市制度を見直しせずに、むしろ、全国に弊害の元を拡散させているのである。将来ビジョンを示さず、ダラダラと問題の先送りを続ける日本の政治の貧困さの現れである。
 大阪のダブル選挙は、こうした現状を打破する大きなきっかけになるはずだ。維新陣営と反維新陣営のいずれが勝つかではなく、どこまで議論を深めて制度の見直しにつなげるかが、最大のポイントなのではないか。議論を呼ぶ問題提起をあえて行なったことの価値は大きい》
橋下氏が既得権益をターゲットにしたことは、大阪市民に支持されたと見られるが、その既得権益は無風選挙と裏表の関係にあったという。
《助役出身者が候補者に担がれ、それを各党が相乗りで支援するパターンが定着したのである。(略)
助役出身の市長が5代連続し、在任期間は計44年に及んだ。いわゆる中之島大阪市役所)体制の確立である。
ではなぜ、中之島体制が継続したのか。ポイントは、大阪市の潤沢な税の使い道。税収が右肩上がりする時代の話である。中之島体制の一員となれば、その配分に関与できる。そう考えるのが、人情だ。
そして、いったん仲間入りしたら、自ら離脱するのもありえない。逆にメンバーの増加は取り分の減少につながることにもなる。市民の市政への関心が低下することは、むしろ、好都合の面もあった。特定の組織や団体、市民を対象とした税の大盤振る舞いが展開された》http://diamond.jp/articles/-/14802
橋下氏が勝ったのは、単なるマヌーバー(策略)だけによるものではないようだ。
今は、大阪だけでなく、全国で、地方自治についての根本的な議論をするチャンスでもある。