父のルーツをたどる1

takase222012-11-02

うちの会社は11月が決算月で、月初めからせわしい。
税理士との打合せや銀行回りが連日続く。また年末までの資金繰りがかなり厳しそうで、取材費をどこから持ってくるかという算段もしなくちゃ。まさにタコ社長の日々。
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父の葬儀の後、郷里の南陽市に残っていた妹が、市立図書館に行ってきたとメールをよこした。「活躍する南陽市ゆかりの作家たち展」をやっていて、私の本や略歴などが飾ってあると言う。
えっ、なんでお前がその一人なんだ、いい加減にしろ、と叱責の声が飛んできそうだ。私自身、いかがなものかと思う。まず「活躍する」というところで首をかしげてしまう。次に最後の「作家たち」。ここにも大きな疑問符がつく。私は「作家」だったのか?
ただ、義理ある筋から頼まれ、私でよいならと協力させていただくことにした。こんな私にまで華をもたせてくれるとは、故郷はありがたいものである。
6人が紹介されていて、水谷修君もあったという。「夜回り先生」で知られた水谷修だ。修君とは同じ小学校に通った。妹と同級で仲が良かったので、うちによく来て、私も一緒に遊んだ。
夜回り先生」でテレビに出てきたとき、あの修君とは分からなかった。昔は顔が真ん丸の可愛い子だったのだ。
たしか横浜から転校してきた。仕事で忙しいお母さんが、修君を田舎のおばあちゃんに預けたらしい。修君の本を何冊か読んだが、山形の田舎ではいつも仲間はずれにされ、いじめられていたことになっている。
妹が「修君、話盛りすぎ」とけらけら笑っていた。修君は、活発で口のたつ子で、積極的にいろんな子と遊んでいた記憶しかないからだ。妹が20歳くらいのとき、同窓会をしたらはるばる駆けつけたというから、小学校時代が悪い思い出だけでなかったことは確実だ。成人してからコンタクトしたのは、数年前、酔った拍子に飲み屋から電話しただけだが、一度、会って、なぜああいう自虐的な書き方をするのか聞いてみたい。
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父の死で、東京でのお通夜と告別式、田舎での葬儀と3回挨拶する機会があった。葬儀では、高世の家と地域のかかわりについて話した。その話をちょっと敷衍してうちのルーツについて書く。
高世の墓は、南陽市漆山の鶴布山・珍蔵寺(かくふざん・ちんぞうじ)にある。このお寺には「鶴の恩返し」の伝説があり、そばを流れているのは織機川(おりはたがわ)。寺は山の中腹にあり、山門、本堂、鐘楼、庭すべてがすばらしい名刹である。
高世の家は代々医者だった。私の名前の仁は、もちろん「医は仁術」からとっている。
墓の後ろを見ると、高世玄丈という先祖が、文化年間に医業を創業したと記されている。200年ほど前のことである。開業した場所は西根村で現在は長井市となっている。漆山から車で30分くらいのところだ。
そのころの田舎の医者というのは、どんな治療をしたのだろうか。漢方なのか和方なのか、山から薬草を採ってきて煎じ薬にしたのだろうか、あるいは、針灸なども施したのかなどと、いろいろ想像するのは楽しい。
そして4代目の高世玄榮のときに、いま実家のある、当時の漆山村に移ってきた。明治の中ごろのことだった。玄榮は若くして亡くなったため、私の祖父で5代目にあたる高世博治はだいぶ苦学したと聞く。うちの父、正弘は6代目ということになる。
漆山という土地で、玄榮、博治、正弘の三代にわたって医者を開業していたわけである。では、玄榮はなぜ漆山に移ってきたのだろうか。