写真は熊谷君が撮った塩釜神社。
神社の前にがれきの山ができている。
番組のきっかけは、熊谷君が福島県沿岸部82の神社を回って調べたことだった。(21日の日記)
番組では、熊谷君の案内で、南相馬市の八龍神社を訪れた。
小高い丘にある神社の土手の10メートルほどの高さまで津波が押し寄せ、水は階段を上がり社殿の土台すれすれまで達したあとがある。だが、不思議にも、社殿はまったく無事な姿で残っていた。
次にその近くの被災地を歩く。立ち並んでいたはずの家々は無残に流され、わずかに土台しか残っていない。その中に、照崎神社の杜と社殿が見える。ここも境内ぎりぎりまで水が来た跡があるが社殿には及んでいない。また、神社から100メートルほどの家々には津波が到達していない。つまり、津波でやられた集落と無事だった集落の境目に建っていたのだ。
番組で取り上げたのは、この2社のほか、相馬市の津(つのみつ)神社、陸前高田市の諏訪神社、仙台市の浪分神社、宮城郡の鼻節神社だ。
だが、すべての神社が津波の被害を免れたわけではない。(24日の日記)
では、熊谷君が調べた82社のうち、どのくらいの神社がやられたのかを尋ねた。
被害にあったある神社を回ってみたら、社殿が流されたが、石碑が残っており、そこには、昭和56年にこの地に移されてきた由来が記してあったという。
では、被害にあったのは新しい神社なのか?熊谷君がメールで返事をよこした。
《流された神社は11社ほどありました。8社は南相馬市鹿島区に集中しています。その8社のうち、いくつかの由来については市史・町史に記述が残っていました。それによると、例えば、津神社(番組に出た相馬市の津神社とは別)は、番組にも登場した八龍神社(もともとは港の神)が、船の大型化による港の移転の際に、年代は不明ですが、低地へ分社して成立したことになっています。
他の沈んだ神社も、成立は、慶長年間、正徳年間、明治、大正など比較的新しいようです。一方、鹿島区以外の地区においては、残った神社の成立年代は不詳のものばかりです。市史の記述は基本的には江戸時代に書かれた「奥相志」という相馬藩の文献に拠っているようなので、その時点で「不明」ということは、それよりもかなり古い、と考えてよいように思います。
実際に、残った寺社のうち、数少ない由来のわかるものには807年に建ったものがあるなど、1000年以上前のようです。このあたりのことは、地元史の研究家らとさらに調べていくつもりですが、古い神社=残るという概念は間違っていないように感じています》
どうやら、傾向としては、古い神社ほど被害を免れたと言ってよさそうである。
熊谷君の今後の調査・研究に期待したい。
地震工学の権威、東北大学の今村文彦教授は、神社が津波を免れる現象についてこう語る。
「ギリギリのとこにあるってことは、やはり過去、そこまで津波がきていて、で、その一帯被害を受けたんだけども、その境界のちょっと陸側に関しては、被害がなかったと。つまり、安全な場所であったと。で、そこに神社等を建立したと思っています」
神社は、津波の被害を避ける場所を選んで建てられてきたという。
これを裏付けるように、1100年以上前の、貞観津波(869年)がきっかけで安全な場所に移されたといわれる神社がある。
宮城県七ヶ浜町の仙台湾に面する高台に建つ鼻節(はなぶし)神社。海に突き出した地形を「はなっぱし」と呼ぶことが名前の由来とされ、海の守り神として信仰されている。
その本殿脇の小さな祠に「大根明神」が祀られている。
地元の郷土史研究者、飯沼勇義氏によれば、この「大根明神」は、かつて、別のところ、はるか沖合に祀られていたという。
「海にずっとこう、この島が続いてたわけですよね。それが貞観の津波、大地震でもってそれが寸断されて、海底に沈んでしまったという伝説がここにあるわけです」
神社が水没し、場所が移されたという貞観津波の言い伝えが、研究者たちの手で検証されつつある。潜水調査で、七ヶ浜の8キロ先の海底から、「大根明神」の御神体と思われる石が見つかっている。
しかし、津波被害を免れたのは、神社だけではなかった。
(つづく)