神社で止まる津波11―ぎりぎりの理由

takase222011-09-04

写真は、熊谷君が撮影した福島県相馬市のある神社。階段下の鳥居まで津波でやられている。
このように、まさに「ぎりぎり」に建っていた神社が多い。
津波を避けるだけならば、山の方に引っ込んだところにでも建てればいいのではないか。神社の立地にはそれなりの理由があるはずだ。
なぜ「ぎりぎり」なのか。
吉田ディレクターは神道に詳しい複数の研究者に問い合わせたが、納得できる答えは得られなかった。私も、多少勉強したが、分からない。
いまの宮城県岩手県に朝廷の力が及ぶのは8世紀になってからで、貞観の大津波(869年)当時は、鎮守の社がこの地に作られて間もないころだったと思われる。
鎮守の社への信仰は、後世の神社神道とは違っていただろう。私が当時を推測するのは無謀だと思うが、あえて推測を試みる。
まず、神道は山、川、大木、岩などが祀られることで分かるように、古来の日本の信仰はアニミズムがベースになっている。多くの場合、祭りの中心は豊作祈願だ。自然災害は、共同体の最大の関心であり、「鎮守」の社にもっとも期待されたのは災害を封じることだったはずだ。
古来から、洪水、日照り、疾病などの災厄は、神の「祟り(たたり)」とみなされてきた。《日本の神祇祭祀の本質は「祟り」を避けるためにあるといっても過言ではない》(『日本史小百科 神道』(東京堂))
「祟り」は神の怒りであり、神を祀るのは、怒りを鎮めることに他ならない。
神の怒りと対峙してそれを鎮めるとすれば、津波がきたぎりぎりの線に鎮守の杜が位置するのは理解できるのではないか。
貞観の時代は、ちょうど神道の確立期にあたっていたようだ。
先の本によれば、《8世紀末から9世紀にかけて、怨霊信仰は御霊信仰へと発展する》とある。御霊とは無念の死をとげた特定の有力者の怨霊で、典型的なのが、天神様として祀られた政治的敗者、菅原道真だ。朝廷の敵が祀られていくのである。
藤原氏専制体制が確立する9世紀末まで、皇位継承争いとからんだ政治闘争がつづき、その度に怨霊候補者を輩出していった。政治批判を内包する怨霊の観念は、都市災害、とりわけ疫病の流行と結びつき、民間で自然発生的に、疫神をなぐさめ、祟りを鎮めるための祭礼(御霊会)が催されるようになる。貞観5年(863年)には、はじめての朝廷主催の御霊会が行なわれている》
ただ、神道を特徴づけるこうした観念が、9世紀ごろの東北の神社にどれほど反映されていたかは分からない。
また、「ぎりぎり」について別の考え方もありうる。
津波のあと、浸水線には、打ち上げられた多数の遺体があっただろう。貝塚の存在で分かるように、海岸の近くは食物調達の上でも有利で、人口が集中していただろう。津波による被害は壊滅的なものとなったに違いない。
その近くに社を建てることが決められたのは、荒魂(あらたま)となってさまよう犠牲者の霊魂を供養するという意味があったのかもしれない。
的外れかもしれないが、こんなふうに考えた。
ご存知の方がいれば、ぜひ教えてください。
(つづく)